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自分のしたことが気遣いなのか余計なお世話だったのかで悩んだら

自分が相手のことを思ってやったことが気遣いだったのか、余計なお世話だったのか・・・というのは場合によっては紙一重だったりするのかも知れません。

それがよかったのか、余計なお節介だったのか・・・というのは、きっと、その相手の受け取り方次第で変わってしまって、Aさんは喜んでくれたけど、Bさんは喜んではくれなかったようだ・・・ということもあると思うんです。

簡単な1つの判断基準

自分のしたことが気遣いなのか余計なお世話だったのか・・・と悩むことは僕自身、よくありました。

頼まれてしたことだけど・・・それが余計なことだったのではないかと思うことがあったりします。実際に余計なことをしていたことは一度や二度ではなかったかも知れません・・

そんな未熟な自分の中に今は、1つの判断基準ができました。

それは相手を尊重しようとしていたかどうか・・・ということで。

伝える努力や相手が本当に求めているものを見極める努力というものは大切なことだと思うのですが、相手の受け取り方というのは、それはもう自分がコントロールできる範囲ではないのかも知れません・・・どんな思いを送っても届かないこともあれば、それが思うように伝わらないこともあります。

ただ、僕にできるのは、自分がどんな思いで相手と向き合おうとしたか・・・ということだけで。

相手を尊重しようとしていたか・・・と考えて、その姿勢が自分にあったなら、それでいいと今は思うようになりました。たとえ、相手に伝わらなくても。

もし、その姿勢がなかったら、どんな思いでいたかを振り返るようになりました。

これは以前にも少しお話させていただいたことですが・・・与えようとしているつもりが、どこかで「よく思ってほしい」という気持ちが紛れ込んできた時・・・相手にどう思われたのかが気になることがあったりします。

相手を尊重しようとしていたか・・・ですが、じゃあ、具体的にそれはどういうことなのか・・・について次に書かせていただきたいと思います。

決めつけずに知ろうとする努力

気遣いを忘れないでいてくださる方がいらっしゃいます。

その方がしてくださっていたことが何だったのかが今になってわかるようになったんです。

それは恐らく・・・相手を決めつけずに知ろうとする努力だったのだと。

すれ違いが気遣いを余計なお世話にしてしまうのかも・・・知れません。すれ違いとは、自分が思った相手と実際の相手とのギャップです。

そういうすれ違いは、きっと、夫婦ですとか、友人関係ですとか、いたるところによく起こり得ることなのかも知れません・・

たとえ、頼まれてやったことでも、それを余計なお世話のように受け取られてしまうこともあります・・相手が何をどう受け取るかはわからないものだと思うんです。

だから、完璧な気遣いというものはもしかしたらないのかも知れません・・

相手のために、相手が嬉しいと感じることをすることはきっと余計なことにはならないように思いますが、その相手が嬉しいと感じることをするために・・・相手を決めつけずに知ろうとし続けることが必要で、その思いがきっと相手を尊重することでもあるのかも知れないなと、今、そう思ってます。