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自分を苦しめる考え方を変える方法、感情は思考の後についてくる

以前に考え方の癖を変える方法・・・という記事を書かせていただきました。

そこでは人の考え方にはどうも癖というかパターンがあって、それをまとめると10個のパターンがある・・・ということ、また、そのパターンは人によっては1つだけでなく、複数持っていたりすること、そして、その考え方を変える1つの方法として反応を決めておく・・・という方法を書かせていただきました。

今回はまた違った考え方の変え方と言いましょうか、そういう方法についてご紹介させていただきたいと思います。

感情とは思考の後についてくるもの

人が悩んだり、苦しんだり、不安になったり、怖くなったりするその原因が考え方にあることがよくあります。

嫌な気分であったり、嬉しくなったり・・・そういう感情を決めているのは、その直前に「何を思ったか」という「考え方」もしくは「捉え方」です。

例えば、何か贈り物をしてお礼を言わない人がいたとします。その人に対して、「お礼も言えないなんて、どんなことを教えられて育ったのかな」と思うと、その直後に怒りであったり、そういう感情がついてきます。

でもその人に対して、「今は仕事で忙しくて連絡できないのだろう。そっとしておいてあげよう」と思えば、その後に嫌な感情はついてきません。

感情とは「何を思ったか」が決めているようです。

それはまるで、飛行機と飛行機雲のようです。

どのように飛行機が飛んだか・・・が、どのような飛行機雲になるかを決める・・・そんな感じに似ているのかも。

だとすると、嫌な感情であったり、不安、恐怖・・・といったものは、それそのものを何とかしようと思っても、あまり意味はない・・・ということになります。それは飛行機雲・・・ですから。

大切なのは、その前の段階で何とかする・・・ということです。

前の段階とは、「何を思ったか」という「考え方」の部分です。

自分の「非論理的な考え方」に気づく

・・・本題に入る前に話が長くなりました。

ただ、その「感情は思考が決めている」ということを知っておくと、考え方を変えようという気持ちがより強くなれるというか、僕はそう思ったものですから。

さて、自分を嫌な気分にさせる考え方というのは、ほぼすべて「思い込み」や「執着」であることが多いものだと思います。

例えば、先ほどの例ではお礼を言わない人に対してイライラしました。それは

「人から何かをいただいたら、すぐにお礼を言うべきである」

という考え方を持っていたから・・・かも知れません。この「~べきである」という部分がつく考え方は全て思い込みと思ってもいいと思います。

思い込みとは、「~べき」「~ねばならない」という風に1つのことしか自分にも他人にも許さない考え方で、柔軟性に欠けます。

「人から何かをいただいたら、すぐにお礼を言うべきである」

という考え方は、「お礼をすぐに言わないこと」を自分にも他人にも許さない考え方なので、それができない人は許せません。と同時に自分も許していないわけですから、自分に対してもプレッシャーをかけ続けることになります。

だから、思い込みを多く持っているほどに、何故かいつも心が疲れてしまう・・・ということがよく起きるのではないでしょうか。

さて、こういった「~べき」という考え方は自分にも他人にも優しくない考え方であり、自分を追い込んでゆく考え方だと僕は思います。嫌な感情を生み出す考え方・・・といってもいいのかも知れません。

それは完璧に自分の思い通りにゆく世界では問題なくても、それぞれが別々の考え方や価値観を持った世の中では、自分を苦しめます。

だから、そんな考え方は捨ててしまった方がいいわけで。

でも、どうやって捨てるか・・・ということが問題ですが、思い込みとは基本的に「非論理的」な考え方であることが多いものです。言葉を変えると偏っているということです。

先ほどの・・・

「人から何かをいただいたら、すぐにお礼を言うべきである」

という考え方を他人に当てはめること、これは「論理的」でしょうか?
僕は「非論理的」だと思うんです。

何故なら、お礼を言いたいけど、相手も人間ですから、忙しさの中でついお礼を言うのが遅れることもあるかも知れませんし、つい忘れてしまうかも・・・。

これは「人間が不完全な生き物である」ということを前提に考えると、自分や相手に完璧を求めること自体が「非論理的」であるわけで。

その自分の思い込みというものにまず気づき、それが「非論理的」であるということに気づくことで、その自分の考え方を捨てよう、または変えよう・・・という気持ちになれるかも・・・知れません。

捨てられないのは自分が握りしめて離さないから・・・なのですが、それを離すことが難しいと僕は思います。だから、「思い込みを手放せばそれでいいんだよ」・・・そう言われても僕なんかにはきっとできないように思うんです。

大切なのは、「自分から手放そうと思えるように、気づくこと」だと。

そのために自分の考え方が本当に「論理的」なのか、それとも「非論理的」であるか・・・ということをまず考えてみるということが大切なのかなと思うんです。

「非論理的」な考え方を手放す

自分の中にある思い込み・・・これに気づくのは簡単で、嫌な気分になった時、その前に何を思ったか、考えていたか・・・ということを見つけることだと思います。

それはもう自動的なもので、無意識のうちに考えていることなので、見逃しがちですが、必ず嫌な気分になるということはその前に思い込みが隠れています。

それを見つけたら、今度は手放してゆくわけ・・・ですが、大切なのは、自分でそれが「非論理的」であることに気づくこと・・・だと思うんです。そう思えた時に、その考え方は本当は違うのかも・・・と自分で思えてきます。

それが本当の意味で手放す・・・ということだと僕は思います。

さて、何度も寄り道をしてすみません・・・(笑)、その自分の考え方が「非論理的」であるかどうかは、こんな風に自分に問いかけてみるとわかります。

「本当にそうだろうか?」

・・・と。先ほどの例でこんな思い込みがありました。

「人から何かをいただいたら、すぐにお礼を言うべきである」

これを僕が持っていたとします。そして、お礼が来なくて嫌な気分になったとします。まず、この思い込みに気づきます。次に

「本当にそうだろうか?」

と自分に問いかけます。「本当にすぐにお礼を言うことが100%できるだろうか?」とか、「本当にどんな時であってもすぐにお礼を言うことができるだろうか?」・・・という風に。

すると、「どうしても忙しかったり、何か特別な事情があったりして、すぐにはお礼を言えないケースもあるのではないか・・・」というような可能性が浮かんできます。

この世界、特に人間に関しては100%はないし、完璧もないことを思うと、

「人から何かをいただいたら、すぐにお礼を言うべきである」

というのは論理的ではないな・・・と気づきます。本当は・・・

「人から何かをいただいたら、すぐにお礼を言えればいいけど、それができないこともある」

という風に考えていた方がいいのかも知れません。少なくとも、その考え方は自分も許しているわけですから、他人に対しても寛容になれます。

もしかしたら、心が広い人・・・というのは、自分の考え方の中にグレーゾーンが広い・・・そういう人のことを言うのかも知れません。

自分を嫌な気分にされる考え方、必要以上に不安にさせたり、恐怖を与えるような考え方を変えるには、「本当にそうだろうか?」と考え、それが「非論理的」であることを自分自身で見破ることが大切なのだと、僕は思っています。

今回書かせていただいた方法、実は「論理療法」という1つの心理療法として確立されたものです(・・に似ています)。僕のやり方はあくまでも我流ですが、本当の論理療法は優れたものだと僕は思います。