自分を犠牲にして人に尽くすこと、どこまでやってあげたらいいか?
自分を犠牲にし続けてでも、人に尽くしてしまう。
そんな人もいるかも知れません。
誰かのために何かをやってあげること。
それはとても素晴らしいことだと思うんです。
だけど、もし、自分を犠牲にしているようであれば、いつかは疲れてしまう瞬間がやってくるかも知れません。
相手のために尽くすことに疲れてしまったり、相手に失望してしまったり、または、そのつもりはないのに、気づくと感謝であったり、お礼がないことにガッカリしてしまっていたり・・
もし、そうなってしまうようであれば、それはどこかでやり過ぎているのかも知れません。
今回は、自分を犠牲にして人に尽くしてしまうことについて、また、人にはどこまでやってあげればいいのか?ということについて考えてみたいと思います。
また、記事の後半では、人を助けてあげたいと強く思いすぎてしまう理由についても見てゆきたいと思います。
目次
人にはどこまでやってあげたらいいか?3つの簡単なルール
人のために何かをやってあげたい、人を助けてあげたいと思われる方は、きっと見返りを求めているわけではないのだと思います。
ただ、相手の喜ぶ顔がみたいからとか、困っている時には助けてあげたいという、そんな思いをお持ちなのだと思うんです。
「ごめんね、ちょっと辛いことがあって・・話を聞いてくれる?」
そう言われて話に付き合ってあげること。
それは素晴らしいことだと思います。
でも、例えば、毎週のようにその友達から呼び出されて、話を聞いてあげて、終わったら家に帰ってグッタリしてしまうようであれば・・・それはやっぱりやり過ぎなのかも知れません。
そうやって自分が疲れてきたり、相手に失望してしまうようであれば、やっぱりそれは何かをどこかで間違えてしまっていたのかも。
どこまで人に対してやってあげたらいいか?
その線引きはとても難しいと思うんです。ただ、1つの考え方として、
- ①たとえ感謝されなくてもやってあげたいと思える範囲まで
- ②自分が喜んでやってあげたいと思える範囲まで
- ③自分を犠牲にし続けないでできる範囲まで
・・のどれかに当てはまるところまで、でいいように僕は思っています。
それは簡単に言ってしまうと、自分が笑顔でやってあげられるところまで・・ということになるのかも知れません。
そこを超えて人に何かをしてあげたり、人に尽くそうとすると、自分ではそのつもりはなくても、相手から何らかの見返りが欲しくなったりすることがあります。
それは自分を犠牲にしているから、なのかも。
人は無意識の間に、自分がしていることを相手にも求めてしまうもので、自分が自分の気持ちを抑えて何かをしていると、相手にもそれなりのことを求めてしまいたくなることがあります。
私はこれだけやっているのに、何故あなたは何もしてくれないの?、と。そして、それが相手との気持ちのすれ違いにつながっていったりします。
だから、自分を犠牲にして何かをやってあげることは、結果的にはお互いのためにはならないのかも知れません。
相手の学びのチャンスを奪わない
困っている人がいたら助けてあげたい。その気持ちはとても美しく、そんな方はとても心の優しい方なのだと思います。
だけど、そのためには、時に自分を犠牲にすることはあっても、犠牲にし続けたのではダメなんだと思うんです。
本当の意味で誰かを助けること・・・それは、転んでしまって立ち上がれないでいる人に手を差し伸べることなのかも知れません。
だけど、その人をずっと支えることはできません。人は自分の足でしか立つことができないと思うんですね。
一時なら、相手に自分に寄りかかってもらうことができます。支えてあげることもできます。
だけど、ずっとはできません。
それを続けたら、二人とも倒れてしまいます。
それにこの人生はきっと人に支えられ続けては何も学ぶことができず、転んでもいいから、自分の足で歩いてゆくことではじめて、何かを学ぶことができるのだと思います。
だから、誰かをずっと支え続けようとすることは、かえって、相手の学びのチャンスを奪っていることになるかも知れません。
そうやって考えていった時、人が人にしてあげられる一番のこと、それは相手に自分の足で立ち上がろうとする勇気を与えることなのかなと・・僕はそんな風に思うことがあります。
誰かを支えようとする時、自分が少し強くなれたような気持ちになります。
そして、そんな時は寂しさも弱さも、悩みさえ、感じないことがあって。誰かのためにというのは、そんな強さを自分に与えてくれる何か特別な力があるのかも知れません。
だからこそ、ずっと頼りにされたいし、誰かを助けたい気持ちになることもあります。
だけど、自分じゃなくて、相手のことを考えた時、最後はあえて、手を離さなければならない時もあるのかも知れません。
人を助けてあげたいという気持ちが強すぎる時
少し話は変わりますが、人を助けたいあげたいという気持ちが強くなり過ぎてしまうこともあるかも知れません。
その気持ちが強すぎて、自分を犠牲にしてでも、相手のために何かをしてあげたくなる、相手を助けたくなるというか。
その相手を助けてあげたいという気持ちが高まり過ぎてしまう原因も人によって様々だと思いますが、その原因の1つとして、自分自身の中に「助けてもらいたかったのに、助けてもらえなかった」という気持ちがまだ残っていること・・が関係している場合があります。
つまり、以前、何らかの形で辛い思いをして、その時に誰か、もしくは特定の誰かに助けてもらいたかったのに助けてもらえなかった・・という気持ちがまだ自分の中に残っていて、だから、相手の気持ちがすごくよくわかるし、無視をすることができない。
だから、たとえ、自分を犠牲にしても、辛い思いをしている人を助けてあげたくなってしまう。
そんなこともあります。
この場合は、相手のために自分を犠牲にするのをやめようと思っても、なかなかやめることができなかったりします。
それは、相手の痛みを自分の痛みのように感じてしまうから。
この場合、救いたいと思っているのは、勿論、相手なのですが、どこかで自分自身も救いたいという気持ちがあるのかも知れません。
もしそうだとしたら、相手を救おうとする前に、まず、自分の中に残っている思いを癒してあげることが先決なのかも知れません。自分を犠牲にすることをやめるためにも、です。
でも、どうやって「助けてほしかったのに助けてもらえなかった」という思いを癒せばいいのでしょうか?
そのためにできることは色々とあるのですが、その方法の1つが、その感情を自分自身で感じてみる、そして、その思いに寄り添ってみるということだと思います。
感情はただ感じようとすることで、不思議と薄れていきます。
感情というのは、自分自身に何かを伝えようとしているのだと思うんですね。
だから、感情は無視されると余計大きくなることがあります。
でも、自分の感情を無視することってよくあると思うんです。
例えば、「こんなにネガティブな気持ちじゃだめだ、もっと前向きに考えなくちゃ」・・と思うことも、「助けてもらえなくて辛かった」という自分の気持ちを無視していることになります。自分の気持ちに寄り添っていないわけです。
こんな時は、その気持ちをそのまま、ただ感じるだけでも、その感情は薄れていきます。
「助けてもらえなくて、辛かったよね」
もし、助けてもらいたかったのに、助けてもらえなかった話を友達にした時、そんな風に言ってもらえたら、気持ちはぐっと楽になれると思います。
これがもし、「そんなこと言ってちゃだめだよ。そんなことは忘れて、もっと前向きに考えようよ」なんて言われたら、わかってもらえなかったと感じて、余計落ち込んでしまうかも知れません。
自分自身の感情と向き合う時も、「助けてもらえなくて、辛かったよね」と言ってくれる友達のように、自分の感情に寄り添った方が、結果的には気持ちは楽になれたりします。
その時はネガティブな気持ちを受け入れても、結果的に気持ちは楽になれて、その後に気持ちは自然と前向きになれたりします。
ネガティブな気持ちになっている時は、(辛いからこそ)気持ちを早く切り替えようとしたくなりますが、それだと、自分の気持ちを無視されているようなもの・・だと思うんですね。
そうではなくて、それがたとえネガティブなものであっても、その気持ちに一旦寄り添ってみる、そのまま受け入れてみる、悲しかったら「悲しくていいよ」と自分の素直な気持ちを否定せずに寄り添ってみると、そのネガティブな感情は自分自身に寄り添ってもらえたことに満足して、薄れていったりします。
もっとも、気持ちの切り替えが大切な時もあるのですが、感情というのは多くの場合、無理に切り替えようとしなくても、ただ、感じてあげるだけで薄れてゆく・・そんな性質があります。
少し話がそれましたが・・
人を助けてあげたいという気持ちが強すぎて、自分を犠牲にしてしまうことがあるような時は、自分の中に「助けてもらえなかった」という気持ちが残っていないか・・?と自分に問いかけてみてもいいかも知れません。
そして、もし、その気持ちがまだ自分の中に残っているようであれば、人を助けようとすることよりも先に、まず、自分を救ってあげること、自分の中にあるその思いを癒してあげることが大切なのだと思います。