何を言ってもこちらの事情をわかってくれない人に悲しくなったら
何を言ってもこちらの事情をわかってくれない。
例えば、そんなわかってくれない人が、自分にとても近い存在、家族であったり、親戚であったり、または親友だと思っていた人であったり、友達だと思っていた人だったりすると、ひどく悲しい気持ちになることもあるかも知れません。
わかってもらえないと思うと、さらにわかってもらいたくなるもので、その気持ちはわかってもらえない度に大きくなっていったりします。
誰にでも事情があって、自分にもあれば、勿論、相手にも事情があるわけですが、多くの場合、人はそういうことがわかっていて、だから、相手に事情があると知れば、その事情を少なくとも受け入れようとはするものだと思います。
だけど、自分にはこういう事情があって、だから、それはできない、だから、そういうことはやめて欲しい・・・そんな風に相手に伝えてみても、それをわかってもらえないこともあるかも知れません。
今回はそんなことについて考えてみたいと思います。
自分が大人になろうと思うことで
何を言ってもこちらの事情をわかってくれない。
そんな相手が自分にとても近い人だった時、とても悲しくなるものだと思います。
何でわかってくれないんだと。そう思えば思うほど悲しくなったりする。
色々なケースがあると思うんです。こちらの事情をわかってもらえないケースというか。
その理由はそのケースによって違っていて、だから、それはこういうことが原因でこう考えたら楽になるという一つの答えはなくて。
だけど、何を言ってもこちらの事情をわかろうとしてくれないことに悩んだ時にできることの1つは、その反対のことをしてみることなのかも知れません。
それはつまり、自分が相手をわかろうとしてみるということです。
何故、わかってくれない相手を自分からわかろうとしなければならないのか・・・というお話だと思うのですが、ただ、相手をわかろうとしてみてはじめて見えてくるものもあります。
相手の事情が見えてきたりする。
今は心の余裕がないのだろう、そう思えてきたり。相手にも相手なりの事情があるのかも知れないなと思えてきたり。
すると、楽になれることがあります。
ただ、中には、どう考えても、おかしいだろうと思うようなこともあるかも知れません。
それは大人としてどうなの?というようなことであったり。
大人としてどうなの?と思うような相手は、本当は大人ではないのかも、知れません。大人の顔はしているけど、心は違うのかも、知れない。
少なくとも、そう思ってみることで、言い方を変えると、自分が大人になればいいと思ってみることで、その相手への気持ちを手放せることがあります。
小さな子供を相手に、自分の気持ちを本気になってわかって欲しいと思う大人は少ないと思います。
同じ目線にならなければ、相手にがっかりしたりする機会も減ってゆくかも、知れません。
同じ大人だと思えば、苛立ったり、悲しくなったりするけど、相手は子供なんだと思えば、残念には思っても、苛立ったりまではしないかも知れません。
全ての悩みがそうではないかも知れませんが、ただ、自分が変わることで消えてゆく、薄れてゆく悩みは多いのかも知れません。
わかってもらえない悲しさを大切な人のために
わかってもらえない、特に自分に近い人からわかってもらえないのは、とても悲しいことだと思うんです。
そういう気持ちを味わってしまったのは、とても残念なことだけど、そういう経験をしたからこそ、見えてくるものもあるのかも知れません。
わかってもらえない寂しさや辛さです。
そういうものは口で言っても本当の意味では理解できるものではないと思うんですね。
自分で経験しないと、その痛みはわからない。
その痛みがわかるからこそ、人の痛みもわかるようになったりして。
だからこそ、自分の大切な人がわかって欲しいと心から思っている時に、わかってあげたいと思える自分になれたりすることだって、あると思うんです。
その残念に思った経験、辛く悲しかった経験を、無駄にはしないというか。
その経験を誰か自分の大切な人のために生かす道があると、僕はそう思っています。