イライラしない方法と原因のまとめ
イライラしない方法を探したくなる時というのは、怒ることで自分が疲れたり、自己嫌悪に陥ったり、自分が小さい人間に思えたりする時だったりするのかも知れません。
大きなことにイライラすることもあるし、小さなことにイライラしてしまうこともあります。
ただ、自分を一番疲れさせるのは、小さなイライラ・・なのかも知れません。
ちょっとしたこと、人の言動であったり、考えてみれば、小さなことなのだけど、そんなことにイライラしてしまうようになると、疲れてきます。
それは「小さなこと」なので、そういう機会は沢山あって、きりがありません。
それに小さなことだからこそ・・何でこんなことに自分はイライラしてしまっているのだろうと、自己嫌悪に陥ったりもします。
今回は、そんな小さなことにイライラしない方法について、また、そもそも、何故イライラしてしまうのか?ということについても考えてみたいと思います。
また、これまで、イライラについては色々な記事を書かせていただいてきましたが(イライラ・怒りに関する記事一覧)、そんなことについても少しまとめてみたいと思います。
目次
- 何故、些細なことでイライラしてしまうの?
- 怒りやイライラは自分を守るために働いてくれている「ガードマン」
- ガードマンが働き過ぎる理由と「不安」
- 前を見ないで自転車を運転する人にイライラする人としない人
- ガードマンが働き過ぎる理由と「考え方の癖」
- 「執着」を捨てるとイライラしなくなってゆく
- イライラする時があってもいい
何故、些細なことでイライラしてしまうの?
イライラの原因の前に、何故、些細なこと、考えてみればイライラしなくてもいいような、そんな小さなことにイライラしてしまうのでしょうか?
大らかな気持ちでいられる時があります。
反対に、些細なことでイライラしてしまう時もあったりします。
例えば、宝くじが当たったその日に上司から理不尽なことで叱られても、「まぁ、どうでもいいか♪」なんて思えるかも知れません。
でも、毎日そんな理不尽なことを言われ続けると、ちょっと言われただけでイライラしてしまったりするかも、知れません。
何が違うのか・・?
それはきっと心の余裕なのだと思うのです。
人は心の余裕がなくなった時に些細なことでイライラしてしまうようになるようです。
イライラというのは、いわばストレスですが、ストレスというのは心の中にたまっていきます。
心には「決まった容量」があって、その心にストレスが一杯になってしまうと、先ほどの心の余裕がなくなります。
すると、もう些細なことなのに、許せなくなってしまう。心がうまく動いてくれなくなる、と言った方がいいでしょうか。
こんな時必要なのは、まずそのいっぱいになった心に隙間をあけて、心の余裕を取り戻すことだと思います。
心に余裕がある時、人はそれほどイライラせずに済んだり、時には笑顔でスルーできたりします。
この心の余裕を取り戻すためには、心にたまったストレスを捨ててしまう必要があるのですが、この続きは小さなことにイライラしたり落ち込むようになる原因とは?でご紹介していますので、よかったらそちらを参照ください。
怒りやイライラは自分を守るために働いてくれている「ガードマン」
さて、では本題に入りたいと思います。
イライラについてはこれまで色々な記事を書かせていただきました。(イライラ・怒りに関する記事一覧)
ただ、そういったことをまとめてゆくと、怒り・イライラという感情は、自分、または自分の何かを守るために湧いてくることが多いようです。
イライラは自分、または自分の何かを守るために湧いてくる・・言ってみれば、「自分専用のガードマン」のような存在です。
この怒りやイライラという感情、自分の「ガードマン」は、自分を守るために毎日働いてくれています。
例えば、道を歩いていたら、前から、自転車に乗りながら携帯/スマホをいじって前を全く見ていない人がこちらに向かってきたとします。
「危ないなぁ」(イライラ!)
・・とイライラしてしまうのは、自分の「ガードマン」が「この自転車が自分の主にぶつかったら大変だ!」と感じて働いてくれたから、かも知れません。
「危ないなぁ」と思うから、万が一の時によけることができます。
これが何も感じなかったら、ぶつけられてしまって大怪我をしてしまうかも、知れません。
「危ないなぁ」と怒りやイライラのようなものを感じた時、体では色々な変化が起こっています。
例えば、血圧が上がったり、交感神経が優位になったり。
これはガードマンが体や脳に対して、いつでも戦える準備、いつでも動ける準備をするようにと伝えたから、かも知れません。
体はガードマンの指令を受けて、血圧を上げたり、交感神経を優位にすることで、危険を避けるための準備をしているわけです。
これがもし、ガードマンがお休みしていたりすると・・
体はリラックスした状態、副交感神経が優位になっていて、先程の前を見ずに進んでくる自転車の例だと、とっさの時に自転車をかわせないかも・・知れません。
例えば、スポーツ選手の試合直前もそうですが、完全にリラックスしていたりすると、体を思うように動かせず、パフォーマンスはむしろ下がります。
怒りやイライラという自分専用の「ガードマン」は、こんな風にして、自分を、または自分の何かを守ろうとしてくれているわけです。
自分、または、「自分の何か」と書きましたが、ガードマンが守ろうとしてくれているのは、自分の体だけではありません。
例えば、自分の「名誉」も守ろうとしたりします。
ガードマンが守ろうとしているものは沢山あるのですが、それらは、ほぼすべてが自分か、自分の何かになります。
それは、いいことだと思うのです。
ガードマンがいるからこそ、自分を守ることができるわけで、ガードマンがいなくなったら大変です。
ただ・・ガードマンはちょっと不器用で、場合によっては、本当は守らなくていいものまで・・守ろうとしてしまうことがあります。
例えば、駅で歩いていたら、後ろから誰かがドン!とぶつかってきて、謝りもせずにそのまま走り去っていったとします。
「なんだあの人!」(イライラ)
とガードマンが勢いよく発動します。
ところが、一緒に歩いていた友人に「失礼な人だよね(怒)」って言ったら、その友人が「ぶつかった時、頭を下げていたよ。泣いていたみたいだけど・・何かあったのかもね・・」と言ってきた。
「なんだ・・そうだったんだ・・」
と納得してイライラは消えていきました。
・・・例えば、そんな風にして、ガードマンは守ろうとはしてくれるけど、その出来事の裏にあることですとか、本当に守るべきものなのかどうかとか、または、本当に危険かどうかを論理的に考えてくれたりはしません。
ガードマンは、ただ、守ろうとするだけしかできない不器用なところがあるのです。
小さなことにイライラしてしまうのは、このガードマンが働き過ぎているから、かも知れません。
じゃあ、ガードマンが働き過ぎている理由は何でしょうか?
また、どうやったら、ガードマンをある意味、制御することができるのか?
次にそんなことについて考えてみたいと思います。
ガードマンが働き過ぎる理由と「不安」
ガードマンが働き過ぎる理由の1つは「不安」です。
下の記事でも書かせていただきましたが、「不安」もガードマンと同じく、自分のために働いてくれているモノの1つですが、「イライラ」と「不安」は密接な関係にあります。
先程の前を見ないで自転車に乗っている人を見て、イライラしてしまった例ですが、人は身の危険を感じた時にイライラしたり、怒りの感情が湧いてくることがあります。
先程の例は、ぶつかるかも知れない・・というリスクが目の前にあったわけです。
ただ、そんなことがあった数日後に、ふと歩道橋の上から道を見ると、また、スマホ/携帯片手に前を見ないで自転車を運転している人が見えた。
すると、何だかイラっ(怒)と来た。
この時、自分の身に危険があるわけではないはず、です。
歩道橋の上にいるのですから。
だけど、イライラしてしまったのは、歩道橋の上から見えた、前を見ないで自転車を運転している人が次に自分が歩いている時に前からやってきたら・・と思って「不安になった」から、かも知れません。
この場合、イライラというガードマンが守ろうとしたのは、将来の自分の安全・・なわけです。
例えば、信号を殆ど無視して走り去っていった自動車に(自分は遠く離れたところにいて危険は一切なかったのに)イラっとしてしまうのは、あんな車が増えて、自分もいつか被害を受けてしまうかも知れないという「不安」が湧き上がったから、かも知れません。
その「不安」を受けて、ガードマンがこれは危険だ・・と発動したのかも知れません。
そういう意味で、イライラというガードマンは、「不安」に忠実で、また、自分の考えにも非常に忠実なわけです。
自分が危ないと思ったら、ガードマンも危ないと感じて発動します。
ガードマンはそれが「本当に危険かどうか?」とは考えてくれないのです。
前を見ないで運転する自転車の人にイライラする人としない人
さて、先ほどの前を見ないでスマホや携帯を見ながら自転車を運転する人にイラっとしてしまう・・というお話に戻ります。
この場合、イラっとしたのは、自分が(将来的に)ぶつけられてしまうのではないか?という不安が湧き上がったから。
そして、その不安をガードマンが真に受けたから・・だったとします。
でも、ここでイライラしない人も実はいます。
前を見ないで自転車を運転する人をイライラせずに、「さっ」とよけて何事もなかったかのように歩いてゆく人もいます。
イライラしてしまった人とイライラせずに歩き去った人。
何が違いますか・・?
どちらの人にもガードマンはついてます。それは変わらない。どちらも人も不安という感情を持ってます。それも変わらない。
じゃあ、何が違ったのか・・?
それは、不安を真に受けたか、不安を真に受けなかったか・・の違いかも知れません。
前者のイライラしてしまった人は、いつか自分がぶつけられてしまうかも知れないという自分の中に湧き上がった「不安」を真に受けています。
その不安をそのまま、その通りに受け取って、そして、「危険だ」と感じてしまった。
後者のイライラしなかった人も、不安という感情は持っていますが、真に受けていないのです。
つまり、いつかぶつけられてしまうかも知れないという「不安」からのメッセージをそのまま受け取ってはいない・・ということです。
これはどういうことかというと・・
「ガードマン」と一緒で「不安」も実は不器用なのです。
不安は、「〇〇が起こるかも知れないよ」とは伝えてくれますが、それが実際に起こり得ることなのか、どの位の確率で起こるとか、そういったことは一切、考えてくれません。
それを後者の人は知っていたのかも、知れない。
だから、「そういうことがあるかも知れないね。だけど、確率は低いんじゃない?よけることだってできるよ。そもそも前を見ないで運転している自転車ばかりじゃないはずだよ。」
・・・と、「不安」という感情からのメッセージに対して、「理性」で論理的に考えています。
後者の人は「感情」を「理性」でコントロールしているわけです。
だからこそ・・不安に振り回されたりしないし、その結果、ガードマンも腰を上げようとしたものの・・「あ、これは大丈夫ですね」と発動せずに済んだ、のかも。
ガードマンが働き過ぎる理由の1つは「不安」・・・ということでしたが、小さなことにイライラしないためには、「不安」の性質を知り、そして、それを自分の「理性」でコントロールしてゆくことが必要なのだと思います。
というと、何だかとても難しいことのようですが・・
ただ、簡単に魔法のように効く言葉があります。
それは何かと言うと、不安が湧き上がった時、
「本当にそうだろうか?」
と自分に問いかけてみることです。
「本当にそうだろうか?」
と問いかけると、本当にそうかどうかを考えるために他の可能性を探る必要が出てきます。
感情で物事を考えている時は、一つのことだけしか、見えていないことが多く、だからこそ、「本当にそうだろうか?」と自分に問いかけてみることが効果的です。
そうすることで、狭くなっていた視野を広げることができるから、です。
ここではわかりやすく、身の危険、ケガをする危険を例にしました。
ただ、守ろうとしているものは、自分の体だけではなくて、自分の「名誉」であったり、または自分が大事にしていることやモノであったり、色々なものがあります。
その何かを守ろうとした時にもやはり同じようにイライラという感情が湧き上がってくることがあります。
ただ、その時にも、「本当にそうなのだろうか?」と考えてみることは効果的かも知れません。
例えば、友人が自分に言った一言が自分をバカにしていると思って、イラっとしてしまったとします。
後で考えてみると、どうでもいいような小さなことです。
そして、実際に後でその友人にその言葉の真意を聞いてみると、自分の誤解だったと気づいて、何だか恥ずかしくなった、友人に申し訳ない気持ちになった。
そんなこともあるかもしれません。
この時も、「本当にそうなのだろうか?」「本当に彼は自分をバカにしているのだろうか?」と考えてみることは効果的な方法かも知れません。
本当にそうなのだろうか?と自分に問いかけることで視野が広がり、結果的に感情ではなくて、理性で考えられるようになることが多いため、です。
ただ・・
でも何故、友人の何気ない一言に対して、自分をバカにしていると感じたのでしょうか?
それも、小さなことにイライラしてしまうことに何か深い関係がありそうです。
ガードマンが働き過ぎる理由と「考え方の癖」
何故、友人の何気ない一言に対して、自分をバカにしていると感じたのか?
この場合は、友人の真意は全く違っていました。
つまり、本当かどうかわからないようなことに対して、「こうに違いない」と思ってしまったわけですが、「~に違いない」という考え方は、1つの可能性しか考えていなくて、柔軟性がありません。
これがもし、「~かも知れないけど。~じゃないかも知れない」と2つの可能性について考えられたら・・・つまり、考え方に柔軟性があったら、「バカにされた」と感じてイライラすることもなかったかも、知れません。
ガードマンが働き過ぎるもう1つの理由は、「考え方の癖」にあります。
考え方の癖については考え方の癖を変える方法で書かせていただいたので、今回は簡単にご紹介しますが、人には考え方の癖がどうもあるようです。
つまり、何かが起こった時、何を思うか、考えるか・・というのは、人によってパターンのようなものがあって、それは自動的に起こっています。
先程の「バカにされた」と感じたのも、この「考え方の癖」がそうさせてしまったのかも、知れません。
違う例だと、例えば、相手のしぐさを見て、「この人は自分に興味がないんだ・・」と思ってしまうのも、考え方の癖・・かも知れません。
これは考え方の癖を変える方法でご紹介した10個のパターンの中の「結論の飛躍」に当たるかも、知れません。
人は、幸か不幸か、主観的にしか、物事を見ることができません。
だから、ついつい、自分の価値観とか、自分の中にある考え方で、人や物事を判断してしまいがち、です。
誰かの言動を自分の価値観で判断しようとする。ところが、相手の価値観や考え方というのは実は自分とは違っていたりします。
だから、自分の価値観や考え方で相手を判断しようとすると、すれ違いが多くなってゆきます。
こんな時、相手の価値観になって考えてみたり、立場を入れ替えてみると、頭の中でもやもやしていたものがすっきり晴れてゆくことがあります。
ガードマンが働き過ぎる理由と「考え方の癖」のお話から少しそれましたが・・
ただ、「~に違いない」というように思うことが多いようであれば、それが本当はどうでもいいようなことにイライラしてしまう原因になっているのかも、知れません。
例えば、あの人はこっちがよけているのに、道を譲ろうとしなかった。(イライラ)
というのも、道を譲らなかったという一面だけで相手を判断してしまっているわけですが、この考え方に少し柔軟性を持たせてあげて、相手に道を譲るつもりがなかったかどうかはわからない・・と考えてみたり・・
または、視点を変えてみて、自分から道をゆずろうとした、その優しさがあった自分を褒めてあげよう・・例えば、そんな風に考えてみただけでも、イライラがす~っと消えてゆくかも、知れません。
何か一つの考え方にとらわれずに、少しだけでも柔軟性を持たせてみようと思ってみると、少しづつですが、ガードマンは必要以上に発動しなくなってゆくかも、知れません。
「執着」を捨てるとイライラしなくなってゆく
先程、考え方の癖のところで、「~に違いない」という考え方についてご紹介しました。
これが少しエスカレートして、「~なくてはならない」という考え方になると、それはその何かに「執着」していることになるかも、知れません。
「執着」と「イライラ」もとても密接な関係があります。
「執着」とは、簡単に言うと、「こうでなくてはならない」という「思い」です。
お釈迦様はこの「執着」を手放せば楽になれる・・・そうおっしゃったわけですが、反対にこの執着しているもの、「思い」が多ければ多いほど、イライラすることも多くなるようです。
例えば、「何かをいただいたら、お礼はすぐにしなければならない」という「思い」もしくは考え方があったとします。
すると、相手からのお礼がすぐに来なかったりすると、もうイライラしてきます。「お礼はすぐにしなければならない」のに、すぐにお礼がこないからです。
だけど、お礼がすぐに来なくてもイライラしない人もいたりします。
その人達を見ていると、「お礼はすぐにしなければならない」とは思っていないことに気づきます。
つまり、「~しなければならない」という考え方を減らせば減らすだけ・・イライラする機会も減ってゆくかも、知れません。
執着を捨てる
「~でなくてはならない」・・・その思いは自分を苦しめることになります。
「~でなくてはならない」という思いがあって、そして、思い通りにならない現実があったとします。
この時、この自分の思い、または理想と現実との間にギャップがあるわけです。
このギャップこそが・・イライラ、またはストレスだと言われたりします。
イライラとは、「ギャップ」でもあるのかも知れません。
例えば先程の、「お礼はすぐに言わなければならない」という思い、もしくは考え方があって(自分の思い or 理想)があって、相手からのお礼が遅れたりする(現実)と・・自分の思いや理想に対して、現実が違っているわけで、ギャップが生じます。
これが「イライラの正体」なのかも知れません。
じゃあ、どうしたらいいでしょうか・・?
現実を変えることは難しいかも知れません。
特に相手がいる場合は、相手をコントロールすることは難しいし、相手を変えることはもっと難しいわけです。
「受け取ったら必ずお礼を言ってね。すぐにね。」
・・・なんて言えないわけです。
この場合は、「お礼はすぐにするべきだ」という思い、もしくは考え方を捨ててしまって、「お礼の形や時期は人それぞれである」ということを悟ってしまえば、または、少し考え方に柔軟性を持たせることができれば・・
今後、同じようなことがあっても一々イライラしたりすることもなくなることになります。
これは、「イライラしてる自分を何とか抑えよう」と自分を抑圧するスタイルとは違って、積極的なイライラ解消法なのかなと、思います。
勿論、簡単なことではありません。
自分の中にある考え方を変えることは難しいし、長い間、何年も何十年も自分の中にあった考え方を変えるのは本当に大変なことです。
でも、誰か、自分以外の人を変えることに比べたら、まだ、変えることができる可能性があります。
「執着しているものが多い」
なんていうと、何だか情けないことのように聞えてしまうかも知れませんが、ただ、自分に厳しい人は多くの場合、自分に対して「~でなくてはならない」という考え方を多く持っていることがあります。
自分に厳しくしてきたことが、自分をイライラさせることにつながっているのであれば、それはとても皮肉なことかも知れませんが・・
ただ、そんなこと、執着していることが多くあると気づいて、そして、それが原因でどんどんイライラする自分になっていることに気づいた時は、思い切って反対のことをしてみてもいいのかも知れません。
つまり、自分に甘くなるのです。
「~でなくてはならない」
これは自分も他人も許さない考え方ですが、自分に甘くなろうと思った時はそれを「~できればいいが、~できない時もある」例えば、そんな風に思ってみます。
イライラした時というのは、何か執着しているモノや考え方があることが多いので、まず、それを見つけます。
そしたら次に、その「~でなくてはならない」という考え方をやめて、少し自分に甘くなってみるというか、自分の不完全さを許そうとしてみます。
「~でなくてはならない」をやめて、「~できない時もある」という風に自分を許してみた時、不思議と人のことも同じように許せて、イライラしなくなったりします。
そうやって、同じことを何度も繰り返して、何度も自分を許し続けてゆく中で、どんどんイライラがなくなっていった・・そんなこともあります。
イライラする時があってもいい
イライラしないためにはどうしたらいいか?
ということをここまで書いてきて最後に矛盾するようなことを言うようですが、イライラする時があってもいいと思うんですね。
もっとも、本当はそんなことがなくなれば生きることはもっと楽になるかも知れません。
だけど、人はそんな完璧にはできなくてもいいのではないかな、と。
それに、怒りや不安という感情が必要な時もあります。
時には何かと戦わないといけない時もあるし、そのために感情というものは必要なのだと思います。
特にイライラや怒りという感情は、エネルギーとしては非常に強いものがあって、使い方によっては、自分を動かす力になることがあります。
ただ、できれば、本当は必要のないイライラや怒りは少しづつでも、手放せてゆけるといいのかも知れません。
それはとても時間と根気のいるプロセスですが、だけど、人は、自分がその気にさえなれば変わることができると、少なくとも僕はそう思っています。