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何故、自分と違う生き方をしている人を羨む必要がないのか?毎日同じことの繰り返しに「これでいいのかな」と思ったら

こんにちは。おかしな幸福論のモリです。

今回は、何故、自分と違う生き方をしている人を羨む必要がないのか?ということについて、また、毎日同じことの繰り返しに「これでいいのかな」と思った時に考えたい1つのことについて、お話ししていきたいと思います。

目次

自分が選ばなかった生き方は輝いて見えるもの

今の自分の毎日、大きな不満もなく、自分で選んだ生き方だけど、何となく、代わり映えしない日々の中で、ふと、他の人がやっていることだったり、他の人の生き方を見て、それがまた刺激的に見えて、何だかいいなぁと思ったり、自分はこの生き方でよかったのかなと思ってしまう。

そんなこともあるかも知れません。

他の人は変化のある暮らし、刺激のある毎日を送っているのに、自分は何だか同じことの繰り返しで、本当にこれでいいのだろうかと、本当はもっと違った生き方があるのではないか・・と。

ただ、本当にそうなのかというと・・・それは違うと思うんですね。

どんな道、どんな生き方を選んだとしてもそうですが、自分が選ばなかった道や自分が選ばなかった生き方、または人がやっていることというのは、輝いて見えるものです。

何故かと言うと、それはきっと、その自分が選ばなかった道の良いところだけを見ていて、全てを見ていないからです。

自分が選ばなかった道や他の人がやっていること、他の人の生き方に見ているのはその生き方の良い部分だけなので、どうしてもそれが輝いて見えるんですね。

ただ、どんな生き方にも、自分の生き方にも、そして勿論、いいなと思った誰かの生き方にも、マイナスな部分はあって。

自分と違う生き方をしている人を羨ましく思っている時は、プラスの部分しか見えていなくて、マイナスな部分が見えていないんだと思うんですね。

どんな生き方にも光が当たっている部分もあれば、その光によってできる影の部分もあるわけです。

その影の部分、マイナスな部分というのも、相手の一部だけを見ても見えてこなくて、それは相手の全部を見ないと、見えてこないものだと思います。

ただ、相手の一部だけではなくて、プラスの部分だけではなくて、マイナスな部分も見ようとした時、相手の生き方をいい生き方だなと思っても、その生き方を羨む必要はないなと、そう思えると思うんですね。

そして、同じように、自分が選んだ道、自分の生き方についても、マイナスな部分だけではなくて、プラスの部分を見ようとしてみた時、自分はこの生き方でいいんだなと、そう思えるのではないかなと思います。

同じことの繰り返しは「安定した日々」

少し話が変わりますが、変わり映えしない毎日、同じことの繰り返しの毎日はどこかマイナスなことのように感じてしまうこともあるかも知れません。

それに比べて、刺激のある毎日はいいことのように思われることもあって。確かに刺激のある毎日、変化のある毎日はエキサイティングな毎日かも知れません。

ただ、人は元々、刺激よりも安定を求める生き物で、だから、刺激は最初は良くても、それが続くと疲れてしまったりします。

ところで、秋元康さんは、著書の中で、「人は潜在意識として、どんな刺激的な仕事であっても安定させようとするもの」だと語っています。

秋元さんのような人だと、さぞかし変化や刺激のある毎日なのだろうと思ってしまいますが、秋元さんは自分の仕事はどの仕事も最初は刺激的でも、いずれ単調になってくると言います。

「仕事とは、もともと単調なものだ」と。

これは暮らしに関しても同じことが言えると思うんですね。

どんなに刺激のある暮らしも、そのままでは人は疲れ果ててしまいますから、どこかで安定させようとするものです。

だから、どんな暮らしも、最終的には同じことの繰り返しになりやすいんですね。

そして、それでいいんだと思います。

ただ、そんな安定した暮らしを続けていると、ふと、それが本当は大切なことだということを忘れて、刺激や変化が欲しいなと、そう思ってしまうことがあります。

そして、そんな時は自分の毎日の中に、少し刺激や変化を加えてみるのはいいことだと思うんですね。

ただ、その刺激も変化も、安定した日々という土台になるものがあって、はじめて生きてくるものだと思います。

毎日同じことの繰り返しの日々は、安定した日々で、その日々が幸せの土台になると思うんですね。

そういう意味で、変わり映えしない毎日は、実はとても大切なものなんだと思います。

ということで今回はこの辺にしたいと思います。

最後までお読みいただいて、ありがとうございました。