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親戚が冷たいことにガッカリしたり、寂しい気持ちになったら?

親戚なのに、冷たい。

親戚としてあるべきはずの、つながりのようなものを相手から感じられない。

そんなこともあるかも知れません。

親戚というのは、本来ならば、特別なご縁のある人、特別な関係であるべきなのだと思います。

だから、そんな特別なご縁があるはずの親戚が、例えば、こちらが困っている時に冷たかったりするのは、非常に残念なことですし、そんな時は、苛立ちを感じたり、または、寂しい気持ちになってしまうこともあるかも知れません。

今回はそんな風にして、親戚が冷たいと思って、残念に思ったり、苛立ったり、寂しい気持ちになってしまった時に、何をどう考えたら自分の気持ちが楽になるか?また、どうやったら、そんな親戚を「まぁいいかぁ」と許せるか?ということについて書いてみたいと思います。

人間関係の悩みは距離感が深く関係している

これは以前にも書かせていただいたことがありましたが、人間関係の悩みというのは、距離、または距離感が深く関係しているようです。

人には、このラインを超えると、相手の嫌なところが見えてしまう・・というラインがどうもあって、人間関係で悩む時、多くはそのラインを自分が、または、相手が超えてしまっていることが多いようです。

特に親戚の場合は、近い関係になりやすく、だからこそ、大きなトラブルに発展することが多いのかも知れません。

悩みの深さというのは、距離の近さに大きく関係しているようです。

そんな時は、少し、相手から離れて、自分が笑っていられる距離感を見つけようとしてみるのも一つの方法かも知れません。

その親戚から、少し距離をとってみると言いましょうか。

一度離れてみると、冷静になれたり、相手への残念な気持ちを少し、捨てることができたりします。

人間関係で悩んだ時は、距離が近過ぎるというサインで、それは少し離れてみた方がいいよというサインでもあると思うのです。

そして、一旦離れてから、自分がどの距離までであれば、笑って付き合っていられるか?ということを探ってみます。

ここでいう距離とは、物理的な距離もそうですが、心の距離もそうだと思います。

自分にとって、その笑っていられるライン、距離を見つけて、その距離を超えないように人と付き合うようにすると、不思議と、人間関係で深く悩んだり、怒りが湧いてきたり、とても寂しい気持ちになったりすることが減ってゆくように思います。

「~べき」を捨てると楽になれる

自分の中に「~べき」という考えがあると、親戚との関係を含めて、人間関係で悩むことが多くなってしまうようです。

例えば、友達とは、こう付き合う「べき」と考えていると、そのように付き合ってくれない友人を許せなくなってしまったりします。

例えば、自分の体調が悪くても、友達が困っていたら、話を聞いてあげる「べき」という考え方が自分の中にあると、話を聞いてくれない友人が許せなくなってしまったり、相手には事情があるのかもと考えてあげることができなくなってしまうことがあるかも知れません。

「~べき」という考え方は時に、とても大事なものだと思うのです。

ただ、それはその何か一つのことをしか許さない考え方で、時に、自分を苦しめたり、自分を縛り付けてしまうことがあります。

そんな時は、「~べき」を少し捨てて、「~できたらいいけど、できないこともあってもいい」と思ってみると楽になれることがあります。

例えば、先ほどの友人のケースでは、

友達が困っていたら、(たとえ自分の体調が悪くても)話を聞いてあげる「べき」

という考え方を・・

友達が困っていたら、話を聞いてあげることができたらいいけど、例えば、自分の体調が悪い時などは、話を聞いてあげることができないことがあってもいい

という風に変えてみます。

これは言い換えると、自分を許しているわけです。

人は自分に許していることは、人に対しても許そうとする心理というか特徴があります

だから、このように考えていると(自分を許していると)、例えば、友達が忙しかったりして、自分と会えなかったとしても(話を聞いてくれなかったとしても)、その友達を許すことができるようになったりします。

それは、自分を許しているからだと思うのです。

これは友達との関係だけでなく、親戚との関係でも同じようなことが言えるように思います。

冒頭で、親戚が冷たいと思った時に、どうやったら、そんな親戚を「まぁいいか」と許せるか?と書かせていただきましたが、そのための方法は、まず自分を許してみるということなのかなと、思います。

つまり、「親戚なのだから、~するべき」という考えを自分に課しているようなことがあれば、その「~べき」というものを少し捨てて、それができない自分がいても、そんな自分を許してみると、不思議と、親戚に対しても、許せることが増えゆく・・・そんなこともあるようです。

「親戚は近い他人」

実は、僕(筆者)自身、親戚付き合いで悩んでいたことがありました。

当時の自分には「親戚なんだから」という思いが強くあったのだと思います。

ただ、その思いの強さが悩みにつながっていたのかも知れません。

そんなある日、ある人が「親戚は近い他人だと思っていればいいのかもね」と、言ってくれました。

「親戚なんだから」と考えると、先ほどの「~べき」という考えが浮かんでくるものですが、「近い他人」だと思ってみると、許せることもあるかも知れないなと、その時、そう思いました。

勿論、親戚全員をそう思うのではなく、深い関係を築いてゆく親戚だっているわけですが、ただ、中には、口には出さなくても心の中で親戚付き合いは不要だと思っているような人であったり、親戚を大事にしようとしないような人もいるかも、知れません。

そういう人に対しては、「近い他人」なんだと、そう思ってみることで気持ちが楽になれることもあるように思います。

温かい気持ちを本当に必要としている人のために

誰かを冷たいと思うのは、自分の中に温かさがあるから、なのだと思います。

人に冷たい人は、誰かのことを冷たいなんて思わないものだと思います。

温かい人だからこそ、人の冷たさが悲しかったりするのだと、思うのです。

人の冷たさは悲しいものですが、その相手が親戚だったりすると、本当にがっかりしてしまうし、本当に残念な気持ちになるものだと思います。

ただ、その温かさは、冷たい人のために使うより、もっとその温かさを必要としている人、自分にとってもっと大切な人のために使ってみてもいいのかも知れません。

誰かに使える温かさって、限られていると思うのです。

それは優しさと似ていて、優しさも、例えてみれば、入れ物のようなものに入っていて、使うとその入れ物の中の優しさが減ってしまいます。

勿論、なくなった優しさはまた、戻ってきますが、少し時間がかかります。

だから、誰にでも優しくしようとすると、優しさがすぐになくなってしまって、しばらく、使えなくなってしまう。

温かさも優しさと一緒なのだと思います。

だから、冷たい人に使ってしまうより、使う先を限定していった方がいいのかも知れません。

人の冷たさ、人の温かさ

人の冷たさを感じた時は、何だか寂しい気持ちになってしまうものかも知れません。

もし、世の中の人が全員、心の温かい人だったなら、よかったのかも知れませんが、実際の世の中はどうもそんな風にはできていないようです。

冷たい人もいる世の中です。

ただ、冷たい人がいるからこそ、温かい人に出会った時に、ほっとできたりするのかも知れません。

それは、暑い日に飲む温かい飲み物よりも、寒い冬に飲む温かい飲み物の方がほっとできることに似ているでしょうか。

冷たさに触れるからこそ感じることができる温かさもあるのかも知れません。