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自分のせいにすること、人のせいにしないこと、誰のせいにもしないこと

1998年、フランスで行われたサッカー、ワールドカップ。

日本がサッカーワールドカップ本戦初出場となったこの大会の直前に、それまでチームを支えてきた三浦知良選手は出場メンバーの選考から外されることになります。

そのことについて三浦選手は自身の著書の中でこんな風に語っています。

「人生に偶然はない。(~中略~)だからこうも思う。1998年W杯に行けなかったのも偶然じゃない。

岡田武史監督がどうこうでもなく、僕に力がなかったのだと。努力が足りなかったのだと。(~中略~)素晴らしき90分間を思い返す。

幸せ、やり切った充実感・・・。ずっとやっていたいね。死ぬまでね。」(出典:人生に偶然はない 「やめないよ」三浦和良 新潮新書)

その後、三浦選手はこんな風にも語っています。

「学ばない者は人のせいにする。学びつつある者は自分のせいにする。学ぶということを知っている者は誰のせいにもしない。

僕は学び続ける人間でいたい。」(出典:1センチでいいから前に進むんだ 「やめないよ」三浦和良 新潮新書)

誰のせいにもしない生き方

「主体性を持って生きなさい」

・・・僕が大学の頃、ある先生に教えていただいたことで、だけど、そんな風に自分自身、生きてはこれませんでした。それをようやく変えようと思えたのはそれから10年以上も経ってからのことで。

これについては、以前にもお話させていただきましたので、省きたいと思いますが主体性を持って生きるとは・・・三浦選手が語られた「誰のせいにもしない」・・・ということに通じるものがあるのかも知れないなぁ・・・と、思いました。

学ぼうとし続けることが、誰のせいにもしない生き方につながってゆくのかも知れない・・・三浦選手の言葉にそんなことを思います。

誰のせいにもしないことも主体性を持って生きることも、一つの強さなんだと思うんです。

誰のせいにもしないことも主体性を持って生きることも、自分の人生の舵取りは自分がする・・・そんな強さで。

その強さというのは、もしかしたら、どんなことからも学ぼうとする心が与えてくれるものなのかも知れないなぁと、思っています。

原因を誰かに求めると、自分が縛られてしまう

ここまでサッカーの三浦選手のお話をご紹介しました。

だけど、そんなに強くはなれなくて、ついつい、今、自分がこんな気持ちになっているのは、または、あの時あんな思いをしなければならなかったのは、あの人のせいだと、例えば、そんな風に思ってしまうこともあるかも知れません。

それは本当にそうなのかも知れません。
自分が一方的に辛い思いをさせられた・・・ということも中にはあると思うんです。

だけど何故か、そう思い始めると、あの人のせいで今、こんな思いをしていると、そう思ったその瞬間は少し楽になれても、その後からどんどん辛くなってしまう・・・

それはきっと自分の今の気持ちや、もっと大袈裟なことを言えば、今の自分が幸せであるか不幸であるかを、自分以外の誰かに委ねているようなものだから・・・なのかも・・

それはその自分以外の誰かに縛られて生きてゆくようなものなんだと思うんです。

だから、誰かに「今の自分の気持ち」の原因を求めようとすることは、今やこれからの自分の気持ちや幸せのようなものを誰かに委ねてしまうことでもあるのかも知れません。

反対に誰のせいにもしない生き方というのは、それを実践しようとする中でぐっとこらえなければならない瞬間が何度もやってきたりすることがあるかも知れません・・

ただ、誰のせいにもしない生き方は少なくとも、自分の幸せは自分が決めるんだという生き方で、それはもっと自由な生き方でもあるのかなと、僕はそう思っています。