謙虚になるためには?謙虚になりたいけど、なれないと思った時は?
謙虚な人になりたいけど、なれない時がある。
本当はそんなつもりはないのに、自分を大きく見せるようなことを言ってしまったかも知れないなと思って、後になって後悔したり。
または、本当はそんなつもりはないのに、つい、自慢になるようなことを言ってしまって、何だか自分が恥ずかしくなったり。
例えば、そんなこともあるかも知れません。
今回はそんな風にして、謙虚になりたいけど、なれないと思った時、どうやったら謙虚な人になれるか?また、謙虚な人がやっていること、謙虚な人の共通点は何だったか?ということについてもご紹介したいと思います。
後悔する気持ちは、謙虚さが自分の中にある証
自分を大きく見せてしまったかなと思ったり、自慢になったかなと思ってしまって後悔する。
そんなこともあるかも知れません。
そして、もっと謙虚になれたらと思ったり。
だけど、時には、そういう時があってもいいのではないかなと、思うのです。
人はそんなに完璧にはなれないし、後悔することがあってもいいと、思うのです。
おかしなことを言うようですが、自分にも「そんな時があってもいい」と、「時にはそんな間違いもする」とそのままの自分を受け入れることが、不思議なことに謙虚さにつながってゆくことがあるようです。(それについては次で詳しくご紹介します)
また、謙虚な人でなければ、言いすぎてしまったかな、自分を大きく見せてしまったかな、自慢になってしまったかな・・と思うことはないと思います。
謙虚さがないと、そうは思えないと思うのです。
謙虚な人になりたいと思った人は、謙虚な人なのだと、思います。
そういうことを前提に、謙虚さについや、謙虚だと言われる人達がやっていたことについて、ここから少し、見てゆきたいと思います。
謙虚な人にあった共通点とは?
謙虚と言われる人達にはどうも、共通点のようなものがあるようです。
それは何だったかというと、「自分の弱さを知っている」ということのようでした。
謙虚な人達は、自分の強さだけではなく、自分の弱さを知っている。自分の弱さから目を背けずに、その自分の弱さを受け入れているようでした。
謙虚とは、辞書で調べるとこんな風に出てきます。
「控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。(出典:デジタル大辞泉)」
自分には弱さもあると受け入れることで、言い換えると、自分の不完全さを認めて受け入れることで、自分の力などを主張しようとする気持ちが薄れたり、また、素直に相手の言葉に耳を傾けられるようになることもあるかも知れません。
自分には弱さがあると思っていれば、自分を必要以上に大きく見せようとは思えないのかも知れませんし、自分は不完全なんだ、自分にはまだ、改善できるところがあるのだと思えば、誰かの言葉や意見などを素直に聞こうと思えるのかも、知れません。
打ったホームランを自慢したくなる草野球のバッターと、謙虚な世界のホームラン王、王貞治さん
ここで少し、たとえ話になりますが・・・もし、僕(筆者)が草野球をやっていて、たまたま、ある日、特大のホームランを打ったとします。
そしたら、僕はその特大のホームランを誰かに自慢したくなるかも、知れません。
一方で、世界のホームラン王、王貞治さんは、とても謙虚な方で、自分の記録(ホームラン記録)を自慢したりするようなことはありませんでしたし、ホームランを打ってもはしゃいだりすることはなかったそうです。
この草野球選手と王さんでは、何が違うのか?
・・ということですが、草野球をやっている僕は、本当の自信がないから、誰かに自分がやったこと(特大のホームランを打ったこと)を自慢することで、すごいことだと、認めてもらう必要があるのかも知れません。
自分の力を(それがまぐれではなくて、自分の本当の力で打ったものだと)信じるために。
一方で、王さんは、本当の意味での自信があるから、誰かに自分がやったことや自分の記録を認めてもらう必要がありません。
だから、自慢する必要も、自分を大きく見せる必要もなくて、それは(自分がやっていること、やったことを)「自分でわかっている」から、だと思うのです。
では、自信とは一体何でしょうか・・・?
自信とは何か・・?
自信と謙虚さ。
この2つはどちらかというと、対極にあるもののように感じてしまいます。
だけど、この2つは深く関係していて、謙虚さを手に入れるにはどうも、自信というものが不可欠のようです。
自信とは、自分はできるんだと、そう思えること・・のように感じてしまうかも知れませんが、ただ、どうもそうではないようです。
自信とは、「自分を信じる」と書きますが、自分ができていることだけ、自分の強さだけを見ようとすると、(人はどうしても、完璧ではなくて、弱さもどこかに持ち合わせているものなので)不安になってしまうことがあって、自分が信じられなくなる(自信を失う)ことがあります。
ところが、自分の強さだけではなくて、自分の弱さも知って、受け入れると、等身大の自分が見えてくることがあります。
等身大の自分でいると、等身大の自分が見えてくると、今の自分にできることとできないことがはっきりとわかるようになるので、自分にできることに関しては、自分を信じることができる(自信が持てる)し、反対に、自分ができないこともよくわかっているので、無理にできるように、わかっているように見せる必要もなくなってくる・・・そんなことがあります。
また、等身大の自分でいると、自分のことを(自分の強さも弱さも)自分でわかっているので、誰かに自分の何かをわかってもらう必要がなくなってゆく・・そんなこともあるかも知れません。
自慢するということや、自分を大きく見せるというのは、自分はすごいんだと相手にわからせたいからすることというよりも、誰かに自分を認めてもらうことで、自分で自分のことを認めたいからやっていること・・なのかも知れません。
そういう意味では、例えば、つい自慢してしまう癖や自分を大きく見せようとしてしまう癖を直すために大事なことは、自分で自分のことを(良いところも悪いところもひっくるめて)少しづつ認めてゆくこと、なのかも知れません。
少し話がそれましたが・・
自信には、色々な定義があるかも知れませんが、自信とは、ありのままの自分を受け入れることで得る、今の自分に対する肯定感のようなものなのかも知れません。
自信については下記の記事でもまた違う角度から書いていますので、よかったらそちらを参照ください。
実るほど頭を垂れる稲穂かな。謙虚な人達が持っていたもう一つのこと
謙虚な人達の一つの共通点は「自分の弱さを知っていた」ということでした。
実はもう一つ、謙虚な人達に共通する点があるようで、それは何だったかというと、「感謝の気持ち」のようでした。
謙虚な人達はよく、「させてもらった」、「させてもらっている」といった言葉を口にします。
「させてもらった」「させてもらっている」という言葉は、つまり、「誰かに」させてもらった、「誰かに」させてもらっているということになると思います。
謙虚な人達はそんな風にして、自分が誰かにさせてもらっているという感謝の念を持っているようでした。
させてもらうという思いは、自分一人ではできない、できなかった、または、自分一人の力は限られているのだという思いがあるということで、それが、「ありがたい」という気持ちにつながっているのかも、知れません。
謙虚の反対は、横柄、高慢、尊大・・・ですが、感謝しようとすると、変な言い方ですが、何故か横柄にも高慢にも、尊大にもなれないようです。
感謝しようとすると、同時に謙虚になれるのかも知れません。
感謝の気持ちが、自分を謙虚な人になれるように導いてくれると言いますか。
感謝というのは、そんな不思議な力があるのかも知れません。
ところで、実るほど頭を垂れる稲穂かなという言葉があります。
稲の穂は実ってくると重くなって、頭を垂れるようにして、穂先が下がってくるものですが、人も人格者ほど、また、学問が深まるにつれて、謙虚になる・・というたとえですが、頭を垂れる(頭を下げている)のは、感謝しているから・・なのかも知れません。
感謝しようとすると、謙虚になれる・・ということですが、不思議なことに、感謝されても、謙虚になれることがあるようです。
謙虚な人の中には、感謝されている人も多くいました。
言い方を変えると、誰かを喜ばせていたというか。
不思議なもので、「ありがとうございました」と言われると、「いえいえそんな・・」とこちらがむしろそんな風に言っていただいて「ありがとうございました」と言いたくなったりします。
感謝されると、感謝したくなって、その気持ちが謙虚な自分にしてくれる・・そんなこともあるのかな、と。
そういう意味では、誰かに喜ばれることをしようとしてみるのも、謙虚な人になるための方法なのかも知れません。