愛とは?愛と愛情の違いとは?「愛する人は愛される人」は本当?
愛されたい、または誰かを愛したい・・・そんな風に思うことがあるかも知れません。
だけど、愛するとはどういうことなのでしょうか?
愛情という言葉がありますが、それは愛とどう違うのか?
愛する人は愛される人・・・と言われますが、それは本当なのか?
今回はそんなことについて考えてみたいと思います。
愛とは何か?
愛とは辞書で調べると、「異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。」(大辞泉)とあります。
愛は、人によっていろいろな定義があるのかも知れません。
ただ、いずれにしてもそれは誰かに向けた思い、なのだと思います。
心理カウンセラーの林恭弘先生は著書の中で、心理学の精神分析学という考え方に触れていらっしゃいます。
その中で、「愛とは相手のために、相手本位に時間を与えることである。」(出典:どうしたら人生は楽しくなりますか?14歳からのメンタルヘルス 林恭弘著 総合法令出版)
・・・という風に語られています。
愛とは、相手のために、相手本位に時間を与えること。
この1)「相手のため」、2)「相手本位」、3)「時間」の3つのキーワードが、例えば、自分がやっていることが愛なのかどうか?と迷った時には大きなヒントになるかも知れません。
1)相手のため、2)相手本位
愛とは相手のために何かを思うこと、何かの行動を起こすこと・・・なのかも知れません。
自分がやっていることが本当に相手のためを思ってやっていることなのか?と迷うことがあります。
本当の意味で相手のために、相手本位で考えようとすることは、とても難しいことで、時にはぐっと言いたいことをこらえることであったり、自分の中に湧き上がる不安と戦わないといけなかったりすると思うんですね。
何が相手のためなのかは、相手本位で、つまり、相手の立場に自分が立たないと見えてこないもので。
自分がこうした方がいいと思うことは、自分本位で、相手本位になるためには、相手ならどう思うのだろう?と、相手の立場に立って、相手の価値観や考え方で考えてみないと見えてこないのかも知れません。
それはすごく難しいことなのだと思いますが、ただ、相手本位で、相手の立場になろうとすることがすでに、一つの「愛」の形なのかも知れません。
3)時間を与えること
先程の「愛とは、相手のために、相手本位に時間を与えること」という愛の1つの定義ですが・・
「時間を与える」という言葉が入っています。
「時間を与える」なんていうと何だか難しいことのようにも思えますが、例えば、相手の話をただ聞くこともそうだと思うんです。
黙って相手の話を聞いてあげようとすることは、それは1つの愛だと思うんです。
だから、誰かを愛したいと思った時にできることの1つは、「ただ相手の話に黙って耳を傾けること」なのかも知れません。
それは誰かのために自分の時間を与えていることになると思うんです。
「時間を与える」という意味では、少し違う形にはなるかも知れませんが、「待つ」ということもそれも愛の1つの形なのかも知れません。
「待つ」ということは時にすごく難しいことですが、ただ、「待ってもらえること」は何よりも温かい気持ちになれることだったりすると思うんですね。
「愛とは相手のために、相手本位に時間を与えることである。」
林恭弘先生が語られたこの言葉は、自分が大切な人のためにやっていること、やるべきことに迷った時に大きなヒントになる言葉ではないかなと、僕はそう思っています。
愛と愛情はどう違うのか?
愛と愛情はどう違うのでしょうか?
先程は「愛」を辞書で調べてみましたが、
愛とは「異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。」(大辞泉)ということでした。
今度は、愛情を辞書で調べると・・・
愛情とは、「深く愛し、いつくしむ心。異性を恋い慕う心。」(大辞泉)とあります。
ここでいう愛の「個人的な感情を超越した」とは、例えば、人類愛とか、そういう意味で使われることとは思いますが、ただ、この「個人的な感情を超えた」ということが、愛と愛情の1つの違いなのかも知れません。
愛とは、個人的な、つまり、自分の思いが入っていないもの。愛情とは、少し・・自分の思いが入っているもの、なのかも知れません。
以前、愛するとは、相手を思う気持ち100%状態を言うと別の記事で書かせていただきました。
相手のことを思う気持ち100%なので、そこに自分への思いは入っていません。
そういう意味では、相手が幸せなら、そこに自分がいなくてもいいとさえ思えるのが愛なのかも、知れません。
親が子を思う気持ちは「愛」であることが多いのかも知れません。
子供が幸せなら、自分はどうでもいいと思える心はまさに「愛」だと思うんです。
一方、愛情は、相手の幸せや喜びを願う気持ち50%、自分の思い50%の状態だと以前に書かせていただきました。
例えば、相手の幸せも願いながら、自分も一緒に幸せになりたいと思った時、相手への思い50%、自分の思い50%で、それは愛情と言えるのかも、知れません。
こんな風に考えてみると、愛とは、物凄く難しいものなのかなと、思うんです。
だけど、愛情なら、何とか手に届きそうな気がしてきます。
自分の思いは半分残しながら、相手の幸せや喜びを願うこと・・・それが愛情なら、それは難しいけれど、いつか手が届くかも知れないなと、僕はそう思っています。
愛する人は何故愛される人なのか?
愛する人は、愛される人だと言われることがあります。
これは本当にその通りなのかも知れません。
愛するとは、相手の幸せや喜びを願う気持ちそのものだとしたら、そういうものを誰かに与えようとする人は間違いなく、愛される人なのだと思います。
誰かに愛されている人には実はある共通点のようなものがあるようです。
それは何かと言うと、自分のことよりも相手のことを考えている・・・ということのようでした。
何だか簡単なことのように思えてしまうかも知れません。
だけど、自分のことよりも相手のことを考えるとは、自分の気持ちより先に相手の気持ちを考えるということなんだと思うんです。
例えば、恋人と会えない日が続いた時に「嫌われたのかな・・」と考えるのは、自分のことを考えていることになるかも、知れません。
だけど、「最近は仕事が忙しくて大変なのかな。がんばってるのかな」と考えるのは、相手のこと、相手の気持ちを考えていることになります。
愛されている人は、圧倒的に後者のタイプが多いようでした。
それはすごく勇気がいることだと思うんです。自分よりも、相手のことを先に考えるということは。
だけど、そうやって、自分よりも相手のことを先に考えようとしてくれる人は、愛される人なのかも知れません。
それは持って生まれたものや、育ってきた環境の中で手に入れるものなのかも知れません。
自分を守るために、自分のことをまず考えなければならないことだって、生きてゆく中で、または子供の頃も子供なりに、必要なことだってあります。
だけど、それは手に入れ直すこともできるようです。
自分を守ることをやめて、相手のことを先に考えるようとしてみたり、自分だけじゃなくて、半分は相手本位で考えようとすることを続けていったら、いつの間にかすごく愛される自分になっていた・・・そんな方もいます。
相手本位で物事を考えようとすることは、それは、与えようとすることでもあるのかも知れません。
そしてそれが、愛されたいと思った時にできる一番のことなのかなと、思います。