人にどう思われるか気になる時は?気にしないためにできること
人にどう思われるかが、どうしても気になってしまう。
そんなこともあるかも知れません。
そんな時は、何だか自分が自分ではいられなくなったりして。
ただ、他人の目が気になることって、少なからず誰にでもあるものだと思うのです。
もし、本当に人にどう思われるかが気にならない人がいたら、寝癖も直さないまま出社してしまったり、ボロボロの服を着て出かけたりしてしまうかも・・知れません。
でもそんな人は実際にはほとんどいないわけです。
つまり、人の目というのは、ある程度は気にするのが当たり前のことで、そして、それはむしろ、いいこと・・なのだと思います。
だから、人にどう思われるかを完全に気にしない方法を探す必要はないのかも知れません。もし、どう思われるかを完全に気にしなくなったら、大変なことになってしまうかも知れませんから。
ただ、人にどう思われるかが過剰に気になってしまうと・・苦しくなってしまったり、生きづらくなってしまうこともあるかも知れません。
そんな時は、その過剰に気し過ぎている部分だけは、捨てることができたらいいのかも知れませんし、その方法なら、人にどう思われるかを気にし過ぎない方法ならあります。
今回はそんな人にどう思われるかが気になり過ぎてしまった時に、どうしたらいいか?どうしたら、人にどう思われるかを気にし過ぎないで済むか?ということについて見てゆきたいと思います。
他人は鏡のようなもの?
人にどう思われるか気になる。
これは一見、相手がどう思うのかが気になっていて、それが問題のように思ってしまいますが、そうではないのかも・・知れません。
そうではなくて・・自分が気にしていることを他人を通して見ているだけ・・なのかも知れません。
他人というのは、鏡のようなもの・・なんていう風に言われることがあります。
これはどういうことかと言うと、自分の心が他人という鏡を通して映し出される・・ということになります。
例えば、絵を描くのが好きで、どこかの展覧会に出品したとします。
ところが、自分が描いたその絵に対して、これでよかったのだろうか、もっとうまく描くことができたのではないか・・と作品の出来栄えが少し気になっていたとします。
すると、その展覧会に訪れた人達が自分の絵を観てどう思うか?ということがとても気になってしまう、かも知れません。
勿論、冒頭でも書かせていただきましたが、どう思われるか?と気になるのは、当たり前のことで、それはむしろ、いいことなのだと思います。
そう思うからこそ、例えば、いい作品が生まれたりするものだと思うのです。
ただ、人にどう思われるかが気になり過ぎてしまうのは、自分が気にしているから・・なのかも知れません。
つまり、自分の心が、他人に映し出されているのだと思うのです。
じゃあ、この場合、「自分の絵がどう思われたかな?」と気にし過ぎてしまうことをやめるためには、どうしたらいいでしょう?
他人ではなく、自分を軸に
自分が気にしているから、相手にどう思われるかが気になる・・
ということは、自分が気にすることを少しやめることをできれば、相手にどう思われるかも気にならなくて済むかも、知れません。
ここで繰り返すようですが、気にするのはいいことだと思います。気にし過ぎることを少しやめることができたらいいのだと思います。
さて、じゃあ、自分が気にすることをやめるためにはどうしたらいいか?
ということですが、これは例えば、完璧な絵を描けばいい・・ということではなくて、「自分にOKを出せればいい」のだと思います。
この場合であれば、自分が描く絵にOKを出せたらいいのかも知れません。
そうすれば、展覧会に来た人がどう思ったかは多少は気になっても、気にし過ぎてしまうことはなくなるかも知れません。
自分にOKを出す方法も色々とあります。
この絵の例であれば、「どんな気持ちで描いたのか・・ということを大事にしよう」という自分なりの信念のようなものを持ってみるのも良い方法かも知れません。
それは言い換えると、自分の中で、自分の言動や自分の何かを判断する際の基準となるもの、軸となるものを自分の中に作ってしまう・・ということになります。
人にどう思われるか?というのは、他人を基準にして、自分を判断しようとしています。
これはまた、別の機会に詳しく書きたいと思いますが、他人を基準にしたり、他人を軸にしたりすると、どう思われるかが気になるようになります。
何故かというと・・
他人がどう思うかは「わからない」からです。
人はわからないことが気になるのだと思います。
一方で、先ほどの、自分の中に自分自身を判断する基準や軸を作って、その基準や軸に対して、自分はどうであったか?ということで自分を判断しようとしてゆくと、不思議と人にどう思われるかがそれほど気にならなくなります。
自分の弱さや欠点を受け入れると、人にどう思われるかが気にならなくなる
これも、自分が気にしているから、相手にどう思われるかが気になる・・ということに通じるものがあると思いますが・・
自分の中に、何か隠したいと思うような(自分が思っている)自分の欠点や弱さがあったりすると・・人にどう思われるか?ということがとても気になってしまうことがあります。
この場合も、実際に気になっているのは相手ではなくて、自分自身・・ということになるのかも知れません。
自分がそれではダメだと思っているから、人の目が気になってしまうのです。
この場合は、その欠点や弱点だと思っていることを克服して、完璧な自分になれば、人の目は気にならなくなる・・かも知れません。
だけど、人は恐らく完璧にはなれません。
それに、弱さや欠点は時に、その人の魅力や長所になることがあります。
自分が思う自分の弱さや欠点が自分と人とつないでくれることだってあります。
強気で、完璧に仕事をこなしているような人が、「仕事がうまくいかなくて、泣きたい時もあるんだ」と言った時、何だか自分と一緒だったんだと思って、共感したり、何かつながりのようなものを感じたり・・そんなこともあったりして。
それに不思議と、「泣きたい時もある」と自分の弱さを隠さずに言った相手にむしろ強さのようなものを感じることさえあります。
少し話がそれましたが・・
自分が隠したいとどこかで思っていた自分の弱さや欠点を受け入れてしまって、自分の中で、「そんな弱さや欠点があったっていい。完璧じゃなくたっていいよ」と、自分の弱さを受け入れてゆくと・・
もう隠す必要がなくなって、だから、人からどう思われるかということが気にならなくなってゆくことがあります。
それは多分、自分が気にしなくなったから、だと思うのです。
それは(弱さを受け入れることは)すぐにできることじゃないかも知れません。
だけど、そういう自分の強さだけじゃなくて、弱さのようなものも受け入れてゆく練習を続けてゆく中で、少しづつ、ありのままの自分というものを受け入れられるようになってゆくことがあるように思います。
意識を自分ではなく、相手に向ける
不思議なもので、自分に意識が向くと、人にどう思われるかが気になってしまうことがあります。
どう思われるか?
というのも、(自分が)どう思われるか?ということであって、それは自分に意識が向いていることになります。
これがもし、相手に意識を向けるとすると・・どう思われるか?ではなくて、
どう思うか?
という風に考えるはずです。
これはつまり、(あの人は)どう思うか?ということで、それは相手に意識が向いていることになります。
対人関係で、相手にどう思われるかが気になり過ぎてしまう時は、意識を相手に向けてみてもいいのかも知れません。
どうやったら意識を相手に向けることができるか・・ということですが、これは案外簡単で、相手の視点になってみるだけでも、相手に意識が向きます。
自分の視点で相手のことを考えるのではなく、相手の視点で、相手は何をどう思うだろう?と考えてみるのです。
すると、自分が心配していたようなことは、人は思っていないのかも知れないな・・とか、そんなことに気付くことがあるかも、知れません。
人は、どうやっても、自分に意識が向くもので、自分のことには興味関心がありますが、自分以外の人には案外・・それほど関心がないことも多いものですから。
人の視点になって物事を考えることを習慣にしてみるのも、人にどう思われるかを気にし過ぎないためにはよい方法かも知れません。
他人の評価を気にし過ぎて自分を見失ったら
少し話が変わりますが、人の評価というものは、必ず割れるもののようです。
例えば、どんな映画でも、ある人は、「すごく面白かった!」と言っても、ある人は「つまらなかった」と言ったりする。
また、人の評価というものは移ろいやすいもので、例えば、生前は全く評価されなかったのに、死後になって、高く評価される人もいます。
つまり、人の評価というものは、曖昧なもので、だから、人の評価がイコール自分の本当の評価だと思っていると、自分を見失いやすくなります。
勿論、例えば、仕事などではお客様の評価は必要(大切)なわけです。ただ、その場合でも全員が評価するというものはないわけで、その場合は、例えば、何割の人に満足してもらえるものを作ろう・・と思ってもいいのかも知れません。
少し話がそれましたが、人の評価(どう思われるかということ)を大事にし過ぎて自分を見失った時は、一旦、自分自身がいいと思える自分、自分自身がいいと思えることをしたり、自分自身が納得できる自分でいようとしたり・・してみてもいいのかも知れません。
自分自身がいいと思える自分でいようとすることから、スタートしてみるというか。
他人の評価を気にし過ぎて自分を見失った時は、そこからスタートしてみて、その後で、誰かのことを考えてみても遅くはないのかも知れません。