いい人だと思われたい、いい人に見られたい気持ちを捨てる方法
いい人だと思われたい。いい人に見られたい。
そんな風に思ってしまうこともあるかも知れません。
誰もがそういう時ってあると思います。
ただ、その気持ちが強過ぎて、いい人に思われるために頑張り過ぎたり、いい人に見られるために自分を犠牲にしてしまったりして、気づくと疲れていたり、むなしい気持ちになっている自分がいる・・そんなこともあるかも知れません。
また、人の評価を過剰に気にしてしまって、人の何気ない言葉に一喜一憂してしまったりして、自分を見失ったり。
今回は、そんな「いい人だと思われたい」「いい人に見られたい」という何故か自分の中にある気持ちに自分が疲れてしまった時、どうやったらその思いを捨てることができるのか?ということについて書いてみたいと思います。
また、そもそも何故、「いい人だと思われたい」「いい人に見られたい」という気持ちが自分の中にあるのか?ということについても、その理由を探ってみたいと思います。
いい人、真面目な人、できる人と思われるために頑張り過ぎてしまう理由は?
心理カウンセラーの心屋仁之助先生という方がいらっしゃいます。
心屋先生は、人間関係で悩む人のカウンセリングを数多く行ってきた中で、ある共通点に気づいたのだそうです。
その共通点とは、人間関係で悩むどの相談者も、真面目で、いい人で、できる人だと思われようとする傾向があること、なのだそうです。
そして、さらに深く掘り下げていくと、一つの大きな共通点があることに気づかれたそうです。
それは何かというと、「母親」に対する見方なのだそうです。
先生はそのことについて、あるインタビューの中でこんな風に語っていらっしゃいます。
相談者たちは例外なく、「子供のころ母親を不幸だと思っていた」という過去を持っていました。
母親が幸せそうに見えない、人生を楽しんでいないように見えるという感覚を抱いていたのです。
これは、「実際に本人が幸せと感じていたかどうか」とは関係がありません。
母親自身がどう感じていたにせよ、子供が母親を「かわいそう」だと思うことが、すべてのきっかけとなっているパターンが多かったのです。
母親を不幸だと見なした子供は、自分を責めるようになります。
(中略)
そこから子供の「頑張り」が始まります。真面目に勉強し、良い学校に進もうとするなど、母親の喜ぶことをひたすら行なおうとするようになります。
母親の顔色をうかがって生きてきた子供は、行動や価値観の中心軸を自分に置かず、他者に置く習慣ができています。
ですから大人になっても、周囲の顔色をうかがい続けます。
そばにいる相手がつまらなそうだったり、場の空気が険悪になったりすると、すぐに「自分のせいかもしれない」などと気に病んでしまうのです。
こうしてあらゆる他者に気を遣いながら生きるとき、その人は個々の相手の向こうに、知らずに母親を見ています。
(出典:THE21 online https://shuchi.php.co.jp/the21/detail/2497?p=1)
心屋先生はまた、いい人だと思われようと頑張りすぎることも含め、人間関係の悩みにつながっている自分の思考、行動パターンを変えるためには、「問題の根源にある「母親への気持ち」を変えることに尽きる」と語られています。
先生は、そういった相談者達の中には、大人になった時点での母親との関わり方は様々で、母親にこだわり続ける人もいれば、愛情より義務感で接している人もいるのだといいます。
ただ、いずれの場合も「お母さんはかわいそうな人」という意識とそれに伴った、一方的な罪悪感があるのだと言います。
じゃあ、そこから解放されるために何をすればいいか?ということですが、先生はこんな風に語られています。
そこから解放される方法は、ある言葉を発することです。
その魔法の言葉とは、「私はお母さんを悲しませてもいい」「お母さんを捨てたっていい」。
そう、親不孝なことを口にすることが本来の自分を取り戻す手段なのです。
罪悪感が強ければ強いほど、「そんなこと怖くて口にできない!」と感じるでしょう。しかし呪縛を解くには、このプロセスを通ることが不可欠です。
少しずつ、繰り返しこの言葉を発していくと、あるとき「自分がどうであれ、母は大丈夫だ」という認識が芽生えてきます。
それは、自分の罪悪感が単なる思いこみに過ぎなかった、という気づきでもあります。
自分の行動と母親の幸不幸は必ずしも直結しないこと、彼女の意に沿う義務はないということ、自分の自由に生きていいのだということ。
これが分かったときに、人は「自分軸」を取り戻すことができるのです。
(出典:THE21 online https://shuchi.php.co.jp/the21/detail/2497?p=1)
先生が最後に語られた、「自分軸」で生きるということについては後ほど少し詳しくご説明したいと思います。
ただ、そんな風にして、母親との関係と「いい人だと思われたい」という気持ちがどこかでつながっていることもあるようです。
先生のおっしゃる「私はお母さんを悲しませてもいい」「お母さんを捨てたっていい」という言葉を言葉を口にするのは、非常に抵抗があるかも知れませんが・・
ただ、例えば、少し離れてみるだけでも何かが変わってくることがあるかも知れません。
それは物理的な距離という意味だけでなく、心の距離という意味でも。
ずっとではなくてもいいのかも知れません。今は・・離れてみるということでも何かが違ってくるかも知れません。もし、先生がおっしゃるように母親への気持ちが問題の根源なのであれば。
これは夢物語だと思っていただければ幸いですが・・
人にはどうも、この人生で自分に課しているテーマというか課題があるようです。
それはどうも、最初から決まっていて、そして、それは自分自身で決めたもののようです。
その課題というのは、いくつかあって、中には自分を苦しめるものもあるようです。
ただ、それを乗り越えることであったり、時にはその何かをぐっとこらえることに意味があるようで、それが、自分の言ってみれば、魂のレベルのようなものを上げてくれるようです。
自分が誰か、自分にとても近い関係の人を自分の力不足で助けてあげることができなかった・・という思いが、時間が経っても、自分を思わぬ形で苦しめることがあります。
悲しんでいた母を助けることができなかった小さな頃の自分・・という思いも、自分の中に何か無意識の間に罪悪感ようなものを植え付けてしまうことがあると言いますか。
そんなこともあるのかも知れません。
ただ、それは、(小さな頃の)自分が何もできなかったのは、ある意味、そういう風にできていたから、なのかも知れません。
そして、その思いをどこかで抱えてきたことも、もしかしたら、自分の課題だったということも。
もっとも、色々なケースがあって、これはこうですとは言えないわけですが、ただ、中には、あえて自分が助けない方がいい何か・・というものも、あるのかも知れません。
親に褒めてもらえなかった子供は大人になっても承認欲求を満たしたくなる
子供の頃、親に殆ど褒めてもらえなかった(認めてもらえなかった)子供の場合、大人になってから、その満たされなかった承認欲求を満たしたくなることがあるようです。
いい人になろうと頑張ることで、またはできる人だと思われるために頑張ることで、その承認欲求を満たしたくなることがあります。
そして、そうやって頑張って、いい人だと思われて、優しい人だと思われて、またはできる人だと思われて、その承認欲求が満たされることもあります。
そんな風にして、承認欲求が満たされた時は、自分の価値、または自分の存在価値のようなものを感じることができて、自分は自分でいいんだと思えるかも知れません。
ただ、問題が一つあって、それは何かというと、人の評価や判断というものは、移ろいやすく、また、必ずわかれるものである・・ということです。
人の評価というのは、時と共に変わるものです。
生前は評価されなかったのに、死後になって、評価されるようになる人も多くいます。
また、人の評価は必ずわかれるものです。
同じ映画を見ても、ある人は面白かったといい。ある人はつまらなかったと言ったりする。
そんな移ろいやすく、わかれやすい人の評価で、自分の価値や存在価値のようなものを見出そうとしていると、一喜一憂を繰り返して、いつか、自分を見失ってしまう・・・そんなこともあるかも知れません。
自分で自分を認めることができなければ、本当の意味では満たされない
人の評価が欲しくなるのは、それが子供の頃に得るべきだったものだったから、そして、それを得ることができなかったから・・そんなことも関係していることもあるかも知れません。
子供は褒められたくて生きている。
そんな風に表現する心理の専門家もいますが、本当にその通りなのかも知れません。
本当は、子供の頃にたっぷりとそんな愛情を注いでもらって、たっぷりと褒めてもらうべきなのかも知れません。
子供の頃に親に十分に褒めてもらえた人は、大人になっても自分に自信を持てることが多いようです。
ただ、子供の頃に褒めてもらえなかったとしても、まだ、大人になった自分なりにできることがあって、それは何かというと、自分で自分を認めるということしてゆく、ということです。
人の評価が欲しくなるのは、自分で自分自身のことを評価していない(認めていない)から、なのかも知れません。
その状態ではいくら人に認めてもらって、その時はよくても、本当の意味では満たされることは少ないように思います。
自分で自分を認めていないから、誰かに認めてもらう必要がでてくるのかも、知れません。
自分を認めることができていないのは、子供の頃に原因があるのかも知れません。
ただ、たとえそうであったとしても、これからでも、自分を認めてゆくことはできるかも知れません。
そして、それがもしできたら、人にはもう必要以上に認めてもらう必要もなくなると思うのです。
もっとも、大人になっても人に認めてもらったり、褒めてもらえたら、嬉しいものだと思います。
ただ、必要以上に人に認めてほしいと思ってしまう原因というのは、自分で自分のことを認めていないからなのかも、知れません。
自分の評価は自分で下す、自分軸の生き方
先ほども書かせていただきましたが、自分で自分を認めることができなければ、人からいくら評価されても本当の意味で満たされることはないのかも知れません。
ではどうやったら、自分で自分を認めることができるか?
・・ということですが、そのためには、他人が下す自分への評価で自分を判断することをやめることだと思います。
そうではなくて、例えば、自分の中で、こんな自分でありたいという、自分が理想とする自分の在り方を持ちます。
その在り方に対して、自分がどうだったか?そこに対して今、自分はどこにいるか?ということで自分を判断、自分を評価してゆく・・ということをします。
他人が下す評価で自分を判断しようとするのは、言い換えると、他人が軸になっています(他人軸)。
後者の自分がこうありたいという思いを基準に自分を判断してゆくというやり方は、自分が軸になっています(自分軸)。
他人を軸にすると、他人の評価は移ろいやすく、わかれやすいので、軸そのものがブレやすく、他人軸で生きようとすると、自分を見失いやすくなります。
一方で、自分軸は、自分がこうありたいという思いが軸になっているわけで、他人を軸にするよりも自分を見失うことは少なくなります。
また、自分軸で生きようとすることで、自分が本当に好きなものやことに気づけたりして、自分らしさを取り戻せたと感じる・・そんなこともあります。
自分のことをいいと言ってくれる人は最初から決まっている
これは以前にも違う記事で書かせていただいたことがありますが、どうも世の中には、不思議な法則のようなものがいくつも存在しているようです。
その一つが2:2:6の法則です。
これは何かというと、世の中には、好かれようとしなくても、自分が自分でいるだけで、そんなあなたがいいと言ってくれる人がいるようです。
その人達の割合は2割。これは数ではなくて、度合いのようなものです。数が少ない場合は、熱狂的なファンがいてくれたり、例えば、そんな感じです。
反対に何をやっても、認めてくれない人もいます。その割合も2割。
残りの6割は、その人達にとって何か自分が役に立っていたり、何かを与えている場合に、いいと言ってくれる可能性がある人達です。
もし、そんな風に予め、自分をいいと言ってくれる人が決まっているならば、いい人だと思ってもらおうとする必要はないことになります。
自分のことをいいと言ってくれる人は、何もしなくても、いいと言ってくれるわけです。
反対に、何をしても認めてくれない人に対して、自分をいい人だと思ってもらう必要もありません。何をやっても認めてくれない・・のですから。
世の中は不思議ですが、どうもそんな風にできていて、そんなことに気づくと、誰かに認めてもらうために自分を演じたり、自分を自分以外の何者かに見せようとする必要はないのだと思えてくるかも、知れません。