嫌いな人はいてもいいか?どうしても避けられない時は?
「嫌いな人はいてもいいか?」
今回はそんなテーマで記事を書いてみたいと思います。
僕は嫌いな人はいてもいいと思ってます。
勿論、いないに越したことはないと思うんです。
だけど、例えば、自分を粗末に扱ってくる人を好きになれるほど・・・僕はできた人間ではないし、そうはなれない気がしています。
諸刃の剣
嫌いな人をどうやったら好きになれるか教えて欲しい・・・知人がそんな風に聞いてくれたことがありました。
だけど・・・僕は嫌いな人を好きになるために時間を費やせるほど人生は長くないような気がしていて。
時にはサッとかわすこと、離れることも(物理的に離れたり、心の距離を置いたりすることも)必要なことなんだと思うんです。
また、(自分が穏やかな気持ちでいるためには)相手を受け入れることも時に大事なことだったりするのかも知れません。
相手を受け入れることは、相手を諦めることでもあると僕は思っていて、それは難しいことですけど・・・本当の意味で諦めてしまった時に自分が楽になれる気がしています。
ただ、どうしても避けられない人だったりすると、なかなか離れることも、かわすこともできなかったりするかも知れません。
そういう人を嫌い続けたりすると、自分がどんどん疲れてゆくと思うんです。
嫌いという感情は諸刃の剣のようなもので・・・嫌うことで傷つかないように自分を守ることができる代わり、嫌うことそのもので自分も傷つきます(苦しみます)。
だから、嫌いと思った時は嫌な(苦しい)気分になるわけで。
自分のために生かしたい
そんな避けられない人がいるような時は、どうしたらいいのでしょうか。
今の僕は、そういう時は嫌い続けようとは思えないんです。
それは自分のためにならないと思うからで。(嫌い続けても自分は楽には生きれないと思うからで)
だから、そんな時はこの機会を(または言葉が悪くて申し訳ないですが・・)その苦手な人(もしくは嫌いな人)に出会ってしまったことを自分のために生かそうと、そう思うんです。
ある方が、嫌いな上司と今日も会社で会わなければならないことを「今日も滝に打たれに行くか!と思っていればいいのですよ」とおっしゃっていましたが、そういう風に考えたら自分が楽かも知れないと、思ったんです。
どっちみち避けられないのであれば・・・それなら、自分のためになった方がいいと僕はそう思うんです。
滝に打たれたことはおありですか?
僕はまだありません。・・予定もありませんけど。。
だけど、平坦な人生なんてないのだとしたら、例えば仕事とか、人間関係とか・・・そういうことで悩むことが滝に打たれているようなものなのかなと・・・そう思ったりします。
どうしても避けられない相手の場合、嫌いという感情を少しでも捨てられると、自分はぐっと楽になれるわけですが、そのためにできることがあると僕は思っていて。
嫌いという感情は自分を守るために湧き上がってくるものなのかなと思うんです。嫌うことで自分を守れます。
そう思うと・・・同じ相手に対して嫌う人と好きとまでいかなくても嫌ってもいない人では何が違うかというと、自分を守ろうとしているかどうか・・・ということになると思うんです。
だとしたら、自分を守ろうとする気持ちを少しでも捨てられたら・・・嫌いという強い感情までは抱かなくて済むようになるかも・・知れないと。
自分を守ろうとする時に2つのパターンがあると思うんです。
1つは自分の身が危ない時です。そんな時は自分を守らないとダメなときで。そんな時に湧き上がってくる感情は自分を守ってくれますし、それが行動を起こさせてくれます。
戦国時代に家で休んでいたら敵が襲撃してきた。
「あ、どうも」・・・なんて思っていたら殺されてしまいます・・。
ちょっと極端ですが・・・そんな時は自分を守らなければならない時で。
もう1つは、捉え方の違いによるものです。
この人は自分を馬鹿にしているんじゃないか・・・例えば、ある人の態度、言葉をそう捉えたら・・・きっとその人を嫌いになります。それはもう馬鹿にされたくないから・・・(自分を守るために)嫌うわけで・・。
この捉え方は相手の態度、言葉を自分の問題として捉えているわけですが・・・例えば、これを相手の問題として捉えたりすると・・・感じ方も変わったりします。
またこの捉え方は自分の捉え方(考え方)の癖ではないかと・・・考えることもできます。
人には考え方の癖があります、そしてそれがその人の感じ方の癖にもなると思うんです。(考え方の癖を変える方法参照)
もし、人の特定の言葉を自分を馬鹿にしているに違いないと捉える癖があって、その癖を少しでも変えられた場合・・・この先の人生を生きるのが確実にぐっと楽になります。
嫌いな人はいてもいいと思うんです。
だけどもし、その相手がどうしても避けられないような人だった場合は、それは自分に与えられた課題だと捉えて、自分のために生かしてみようとすることも、一つの方法なのかなと、思います。