自分の存在意義や存在価値がないと思ったら考えるべき4つのこと
ふと、「自分は必要なのかな?」・・と思う時があります。
自分が存在している意義はなんなのか?自分には存在する価値があるのか・・・と。
自分には存在する価値がない・・・そんな風に思えている時は、例えば、自分は必要とされないから・・とか、自分は何もできやしないから・・とか、そんなことを考えていたりして。
だけど僕は、今は、人に存在価値や存在意義のようなものが「自分以外の誰かにとって」あるなら、それは実は僕が以前に思っていたことより、もっともっと小さなところにあるんじゃないかなと、そう思うようになりました。
喜ばれたその瞬間に存在意義がまた1つ生まれる
自分以外の人に対して、自分が存在する意義があるとしたら、それは、誰かが喜んでくれた瞬間に自分がそこに存在する意義が生まれるものなのかなと・・今は思うようになりました。
自分は誰からも必要とされないから、存在価値がない・・でも、「必要とされる」というような大きなことは、本当は必要ないのかも・・知れません。
例えば、道を歩いていたら、自転車に乗っていた人が倒れてしまって、カゴに乗せていた物が落ちた。
それを拾って、その人に渡したら、ニコッと笑って「ありがとうございました」と言ってくれた。
その瞬間に、自分の存在意義が1つ生まれたことになると思うんです。
電車で席を譲った・・「ありがとうございます」、そう言われた瞬間にも存在意義は生まれていて。
エレベーターで開けるのボタンを押してみんなが降りるのを待った。そしたら、頭を下げて降りて行ってくれた人がいた。そこにも自分の存在意義は生まれると思うんです。
存在意義とか存在価値は、大きな大きな1つのモノではなくて、そういった小さくても感謝されたり、喜ばれたりした時に1つ生まれ、そして、それを積み重ねてゆくもの・・・なのかな、と。
感謝されたり、喜ばれたりした時に1つ生まれるので、自分の意思さえあれば、いくらでも・・・積み重ねてゆくことができるものだと思うのです。
人の存在意義って・・・その瞬間、瞬間で生まれるものなのかなと。
マザー・テレサの言葉で、「誰かに対して笑顔を見せることは、その人にプレゼントを贈っているのと同じことですよ」・・・というものがあります。
お店に入って、店員さんに温かい笑顔で接してもらったら、僕はきっと嬉しくなります。
笑顔を見せるだけでも、人って嬉しくなるものなんだと思うんです。
だとしたら、笑顔でいるだけで、喜ばれます。
そしたら、自分の存在意義が次々とその瞬間に生まれてゆきます。
笑顔で存在意義の貯金ができます。
きっと人の存在意義は・・・そういう今すぐに、誰にだってできることの中にあるのだと思うんです。
自分のために生きなくては人を喜ばせることはできない
人に喜ばれるためには、誰かのために生きなくてもいいし、誰かのために・・・なんて考えなくてもいいのかも知れません。
矛盾するようですが、自分のために生きなくては、人を喜ばせることはできないように思うからです。
自分のために何かをするから、楽しかったりします。
自分のために、自分の好きなことをやってみるから笑顔でいられます。
そして、その自分の中にたまった喜びとか、楽しみが、人のことを考えられる心の余裕を作ってくれて、だから、相手の気持ちになれたり、相手の立場になってあげたりすることができるんだと、思うんです。
自分のために生きることが、自分を笑顔にしてくれて、その笑顔が心に誰かのことを考える余裕を作ってくれる。
そんな人はきっと人に喜ばれる人なのではないかなと・・・僕はそう思っています。
本当の自分の「価値」は評価や承認の中にはない
少し話は変わりますが・・
もし生まれてから誰にも会ったことなく、無人島に一人だけで暮らしていたら、自分に「価値」があるかどうかというのは考えると思いますか?
恐らく、多くの方は自分の「価値」については考えないと思います。
ということは、自分に価値がないと感じることは対人関係の中で感じてゆくものだと思います。
それはまた、自分の「価値」を感じられるのも対人関係の中にあるということなのかも知れません。
自分の「価値」というと、どうしても人に認められること、もしくは人から評価されること、時には人よりも優れていることであったり・・そんな中に見出そうとしてしまいがちです。
ところが、人から認められることであったり、人から評価されることであったり、人に勝つことであったり・・そんな中で得た自分の「価値」というのは、とてももろく、崩れやすいものであるように、僕はそう思ってきました。
人に評価されれば嬉しいです。
だけど、人の評価はどうしてもわかれてしまうもので・・・ある人は評価してくれても、ある人は酷評してきたりする・・
だから、人の評価の中に自分の「価値」を見出そうとすると、自分を見失ってしまったりする・・
人に勝つことで、もしくは人よりも優れていると感じることで自分の価値を見出そうとすると、勝った時、または自分の方が優れていると感じた時はよくても、負けた時や劣っていると感じた時は劣等感を感じてしまったり、みじめな思いをしたりする・・
評価されることであったり、認めてもらうことであったり、勝つことであったり・・・そんな中で得る自分の価値、または存在価値というのは、その時々で揺らいでしまいやすいもので、また、その中で感じるものというのは、自分の本当の「価値」とは違うモノなのかも知れません。
自分の「価値」を感じられなくなった時にできること
冒頭でも書かせていただきましたが、自分の価値、もしくは存在意義というのは人に喜ばれた時に感じることができるものでもあると、僕はそう思っています。
心理学者のアドラーは、自分が他者にとって役に立っている、貢献していると感じられた時、自分の価値を感じることができる、そう語っています。
このアドラーのいう貢献とは・・・大きなものだけではなく、小さなものも含めているようです。
例えば、ニコッと笑って相手と接することだけでも・・・(相手の)人は嬉しくなるものだと思います。
そんな小さなところからはじめて、そして、誰かのことを考えたり、人に喜ばれることをしてみようと思ってみることが、結果的には自分の「価値」を感じられる、自分には存在意義があるんだと思える心へとつながってゆくのかも、知れません。
「他者にとって役に立っている、貢献していると感じた」ことで実感できる自分の「価値」というものは、ちょっとのことでは揺るいだりしない、自分を下からしっかりと支えてくれる、そんなものなのかも知れません。
先程、アドラーの「貢献」のお話をさせていただきましたが、実は沢山貢献されているのに、そう思われていない、気づかれていない・・・そんなこともあるかも知れません。
だけど、人は自分が知らない所で、思わぬ形で・・・喜ばれている、もしくは貢献していることって必ずあると思うんです。
自分の「価値」がないと思ってしまった時には、そんなことに気づけるかどうかというのも大切なことなのかも知れません。
ただ、いずれにしても自分の存在する意味や意義に気づけていない人はいても、存在価値や存在意義がないなんてことは絶対にありません。
だけど、大事なことはやっぱり、誰かに言われてそう思うことではなくて、自分で自分には存在意義があるんだと思えるようになることだと思うのです。
そして、そのためにできることの一つが人に喜ばれる人になろうとしてみる・・ということなのかなと、僕はそう思っています。