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自己評価が低い原因と自分で自分を認める方法。揺るがない自信を持つには?

前回、自己重要感という悩みの根源。自己重要感を高める2つの方法では、自己重要感が多くの悩みの原因になっていること、また、自己重要感を高める方法についてご紹介しました。

その中で「自己評価」と「自分を認める」ということについても書かせていただきました。

今回は、その時もおさらいも含めて、自己評価が低い原因と自分で自分を認める方法について詳しく見てゆきたいと思います。

目次


自己評価が低い原因と「親との関係」

自己評価の低さはその人が育った環境に深く関係していることがあります。

例えば、子供の頃に親に殆ど褒められることなく、もしくは認められることなく育てられたり、親に否定されることが多かった・・というような場合は、自分で自分のことをいいとは思えず、自己評価が低くなってしまうことがあります。

また、親が過保護、または過干渉だった場合も、自己評価が低くなってしまうことがあります。

何故、過保護や過干渉が自己評価の低さに関係しているのか?

ということですが、過保護の場合は、例えば、子供が自分でもできるようなことを親が先回りして子供のためにやってあげるわけですが、これは言い換えると、子供に対して「あなたにはできないのだから、私(お父さん、お母さん)がやってあげる」というメッセージにもなります。

つまり、過保護であることで、子供を結果的に否定していることにもなるわけです。

言い方を変えると、過保護という行為は「そのままのあなたではダメだよ」というメッセージを子供に送り続けていることになり、そのメッセージを受け取った子供も自分のままではだめだという思いを心の中に抱くようになることがあります。

過干渉の場合は、過保護よりもさらに強い否定のメッセージになることがあります。

干渉は、「人のことに立ち入って自分の意思に従わせようとすること」(出典:デジタル大辞泉)という意味がありますが、過干渉という行為は、この(相手の心の領域に入り込んで、自分の意見に従わせようとする)過程で相手を否定することにもなります。

「あなたはこうした方がいい」

というのは、場合によっては「今のあなたではだめだから、こうした方がいい」・・という風に今の相手を否定するメッセージにもなります。

だから、過干渉な行為が日常的に続く場合は、ずっと自分を否定されているようなもので、否定された子供は自分で自分のことを認めることができず、自己評価も低くなってゆきます。

このように何らかの形で親に認められずに育ったり、否定されたり、または過保護や過干渉といった思わぬ形で自分を否定するメッセージを受け取り続けた場合は、大人になっても自分で自分のことを認めることができず、自己評価が低い人になってしまうこともあるようです。

「子供は褒められたくて生きている」

ある心理の専門家の方がそんな風におっしゃっていましたが、子供には褒められたい(認められたい)という自然な欲求があります。

ところが、その欲求が満たされずに育ってしまうと、自己評価が著しく低い大人になってしまったり、子供の頃にその欲求が満たされなかった時の反動で、大人になってから過度に人からの評価を求めてしまうことがあります。

自己評価が低い原因と「自分自身の評価の仕方」

自己評価の低さですが、自分自身に対する評価の仕方が原因になっている場合もあります。

これはどういうことかというと、例えば、何か、目に見える結果のようなもので自分を評価、判断している場合、自己評価が低くなってしまったり、または、自己評価が上がったり下がったりして、不安定になってしまうことがあります。

例えば、何かを成し遂げた時にだけ自分を評価する・・というやり方をしている場合、何かをうまく成し遂げることができた時には自分を評価できますが、それができない時は自分を評価できなくなります。

もっとも、自己評価と言っても、必ずしも自分を高く評価する必要はないと思うんですね。

ただ、必要以上に自己評価が低い場合、そして、それが色々な悩みに発展しているような場合は、自分自身に対してフェアな評価ができるようになれたらいいのかも知れません。

結果だけで自分を評価するというやり方は、フェアなやり方とは言えないと思うんですね。

例えば、野球をずっと頑張ってきて、誰よりも練習して、努力を重ねてきたけど、結局、レギュラーにはなれなかったとします。

この時、レギュラーにはなれなかったという結果だけで自分を(低く)評価するのはフェアでしょうか?

例えば、この、野球をずっと頑張って、誰よりも練習をして、努力を重ねてきたのが自分の大事な友達だった場合はどうでしょうか?

レギュラーになれなかったことを理由にその友達を低く評価するでしょうか?

きっとそんなことはないと思うんですね。

結果だけではないわけです。結果だけじゃなくて、そこには過程というものがあるわけで。

結果は出なかったかも知れないけど、過程はそこにあって、そして、その過程であれば、この場合なら、ずっと頑張ってきたこと、沢山の努力を重ねてきたことは十分に評価できるかも知れません。

結果のように目に見えるものだけで自分自身を評価しようとすると、その周りや、それ以前にあったはずの大事なものを見逃してしまいやすくなります。

この場合は、結果のような目に見えるものだけじゃなくて、過程のように目には見えにくいもの、目に見えない心の姿勢や自分の在り方のようなもので自分を評価するようにしてゆくと、自分自身に対してフェアな評価ができるようになるのではないかなと思います。

結果で自分を評価しようとしても本当の自信は手に入らない

こんな自分になれたら、自分を認められるのにと思う人もいるかも知れません。

これも先ほどのように結果で自分を評価、認めようとしているわけですが、例えば、何かを成し遂げたら、とか、賞をとったらとか、大会で優勝したら、この仕事を成功させたら・・・自分を評価できる、自分を認めることができる・・そんな風に思うこともあるかも知れません。

ただ、そのやり方だと本当の自信や自分に対する肯定感というものが手に入らないことが多いです。

何故かというと、そんな風に目に見えるもので自分を評価してゆくと、どうしても人と比べたくなるためです。

そして、人との比較の中で自分を評価しようとすると、人よりも勝っている時にしか自分を評価できなくなります。

このやり方だと、勝っていると感じた時はいいのですが、負けていると感じた途端に自己評価が下がってしまいます。

言い換えると、人との比較の中で得た自己評価や自信、または自分に対する肯定感というのは、もろく、崩れやすいものなのだと思います。

でも、何故、結果で自分を評価しようとすると、人と比べたくなってしまうのでしょうか?

例えば、自分の収入の額で自分を評価しようとしていたとします。

収入が多い自分は「よし」。収入が少ない自分は「まだまだ」という風に。

ただ、1つ問題があって、収入はいくらだったら「多い」のか、いくらだったら「少ない」のかということが曖昧です。

そこで、何か基準が必要になってきます。

言い方を変えると、誰か自分よりも収入が少ない人を見つける必要が出てきます。

自分は収入が多いのだと自分を納得させるため、そして、そう思うことで自分を「よし」と評価するためにです。

それで、知らず知らずの間にやってしまうのが、他人(の収入)と自分(の収入)を比べてしまう・・・ということになります。

「多い」とか「少ない」という概念は、何か比べるものがあってはじめて生まれてくるモノで、だから、この場合のように、何かが「多い」「少ない」ということで自分を判断しようとしていると、何かや誰かと比べなければならなくなるかも知れません。

今回は収入を例にしましたが、肩書や役職、自分が成し遂げた何か・・・といった結果で自分を判断、評価しようとしている限り、どうしても人と比べたくなってしまうし、(自分を評価するために)人と比べなくてはならなくなってしまうことが多いです。

そして、人との比較の中で自信を得ても、または自分を評価することができても、それは比べるものや比べる人、比べるために使った物差し次第ですぐに失ってしまう可能性があります。

そして、そうやって人との比較の中で得た自信は本当の自信とは程遠い、一時の自信で終わってしまうことが多いかも知れません。

結果ではなく、過程のような目に見えないもので自分を認めてゆく

じゃあ、本当の自信を持つためにはどうしたらいいか?

ということですが、人に左右されない本当の自信を持つためには目に見える結果のようなものではなくて、目に見えないもの、例えば、過程や心の姿勢、自分の在り方というもので自分を評価してゆく、もしくは自分を認めてゆく必要があるように思います。

例えば、先ほどの収入の例だと、いくら稼いでいるか?という目に見えるものではなく、どんな気持ちで仕事をしているか?といった自分の姿勢や心の在り方で自分を評価してゆきます。

今回は自分で自分を認める方法というテーマで書いていますが、自分で自分を認める時も、自分が何をしたか、何を成し遂げたかという結果ではなくて、自分がどんな気持ちでそれをしたか、どんな姿勢で取り組んできたかといった目に見えないもの、自分の在り方、もしくは過程のようなものを見て、自分を評価、認めてゆくようにすると、それが自分に対する揺るぎない自信になったり、自己肯定感につながってゆくように思います。

結果というものはまた、多くの場合、自分ではコントロールできないことが多いです。

例えば、スポーツでも、自分ではベストを尽くしても、たまたまその時に絶好調だった選手が優勝することもあります。

じゃあ、優勝できなかった自分は評価できないのかといったら、そうではないわけです。

ベストを尽くしたという過程は評価できるわけです。

そんな風にして、自分自身でコントロールできる範囲のことで自分を評価してゆくようにするということも自分自身をフェアに評価するためには大切なことのように思います。

先ほども書かせていただきましたが、自分を高く評価する必要は必ずしもないと思うんです。ただ、自分で自分を認めるという意味でも、フェアに評価してゆく必要はあるかも知れません。

自己評価を高めるために、1日の終わりに3分でできること

自己重要感の記事でもご紹介しましたが、自分を自分で認めるため、また、自己評価を高めるために簡単にできることがありますので、少しご紹介したいと思います。

それはどんなことかというと、「1日の終わりに今日の自分のよかったところを3つ挙げる」ということになります。

前回の記事で、僕自身が自己評価、自己重要感が低い人間であったことを書かせていただきました。

そんな自分を変えるために僕自身が実践して効果を感じたのがこの方法でした。

僕は、自分の欠点を直せ、自分の悪いところを直せと教えられて育ってきました。

だから、自分に足りないところばかり、自分の悪いところばかりを見てきたわけで、「自分の良いところ」を探す習慣なんて全く持っていませんでした。

むしろ、自分に足りないもの、自分の欠点や問題点ばかりを探すことが癖になっていました。

だから、最初にこの「今日の自分のよかったところを3つ挙げる」ということをしてみた時は・・

「・・・」

・・こんな感じでした。全く思いつかなかったのです。今日の自分のよかったところというものが。

笑ってしまうほど、何も出てこなくて、だけど、自分には全くなかったことをするわけで、これは効果があるかも知れないなと思いました。これを続けてゆけば自分の中で何かが変わってゆくのではないかな、と。

前回もご紹介した通り、これを実践する時にコツがいくつかあるのですが、1つは小さなことを探すこと。

もう1つは先ほども書かせていただきましたが、結果のような目に見えるものではなくて、できれば心の姿勢や自分の在り方、もしくは過程といった目には見えにくいものを探すということになります。

今日の自分のよかったところは、小さなことで構いません。

例えば、道を譲った・・でもいいし、落ちていたゴミを拾ったでもいいです。

小さなことだけど、小さなことだからいいのです。毎日見つけやすいからです。

月に一回自分のすごくよかったところを3つ挙げるより、小さな、だけど自分のよかったところを毎日3つ挙げた方が自分で自分を認められるようになるという意味では効果があります。

結果ではなくて、過程や心の在り方の方がいいのは、先ほど書かせていただいた通りです。

そんな感じで、1日の終わりに、例えば、ベッドに入った時やお風呂の中ででもいいですが、3つ、今日の自分のよかったところを挙げます。

(日記などに毎晩書き込んでゆくのもいいかも)

これを毎日続けてゆきます。

慣れてくると毎日3分程度でできます。簡単なことだけど、これを続けてゆくと、自分で自分、もしくは自分の存在というものを認められるようになってきます。

勿論、自己評価が低い状態から一気に変わるわけじゃありません。

だけど、まずは3日続けてみて、それができたら3週間続けてみて・・そして、3か月を目指します。

3か月が経つと、1日の終わりに自分のよかったところを探すことが習慣になっているだけじゃなく、日々の暮らしの中で(自分の足りないところではなくて)自分にあるものであったり、自分のよいところに目を向けることがある程度習慣になってくると思います。

こうなってくると、以前よりも自分で自分のことを認めることができるようになったり、そうすることで出てくる気持ちの変化なども徐々に実感できるようになると思います。

自分に足りないところを見るか、自分にあるもの、自分が持っているものを見るか・・それだけの違いなのですが、どちらを見るかで気持ちは全く変わってきたりします。

とても不思議なものだなと思います。