悪口や陰口を気にしない方法とそのために大事な8つのこと
悪口や陰口を言われることは、やっぱり悲しいものだし、傷ついてしまうものだと思います。
例えば、友人だと思っていた人からであったり、職場の同僚であったり、または見知らぬ他人からネットで悪口を言われるようなことも、もしかしたらあるかも知れません。
そんな時はやはり何だかとても悲しい気持ちになるものだと、思います。
ただ、悪口や陰口を気にしないで済んでいるように見える人もいます。
そんな人達には、ある共通点のようなものがあるようです。
この記事ではそういったことも含めて、悪口や陰口を気にしないためにできることについて、ご紹介したいと思います。
目次
- 「愛の反対は憎しみではなく、無関心」
- 悪口は満たされない欲
- 福山雅治さんが語った悪口を気にしない方法
- どうにかしようとすると、それが悩みになる
- 「相手の問題」と「自分の問題」に切り離して考える
- 「お釈迦様が教えてくれた」悪口を気にしない方法
- 自分を客観的に見ようとすると、他人の評価が気にならなくなる
- 自分はそんなことはしないと心に決めてしまうと楽になれる
「愛の反対は憎しみではなく、無関心」
「愛の反対は憎しみではなく、無関心」
マザー・テレサの言葉です。
愛情と憎しみというのは、もしかしたら、意外と近いところにあるものなのかも知れません。
どうでもいい人に対しては、人は愛情も憎しみのようなものも感じることは少なくて、それは「どうでもいい」人なのですから。
関心を持たれないということはそういう意味では一番寂しいことなのかも知れません。
悪口というのは、どうでもいい人に言われることはとても少なくて、少なくともその悪口を言っている人にとってはどうでもよくないこと、人・・なわけです。
どうでもよければ、無関心なわけですので、悪口や陰口を言う必要もありません。
「愛の反対は憎しみではなく、無関心」
そう思ってみると、その言われてしまった、もしくは耳に入ってきてしまった悪口や陰口への感じ方というのも少し変わってくるかも知れません。
悪口は満たされない欲
ここで少し、悪口や陰口とは何なのか?ということについて考えてみたいと思います。
悪口というのは、満たされない欲が形になったもの・・であることが多いかも知れません。
それを簡単に言うと、「不満」ということなのですが、自分の中にある不満が抑えられなくなった時に、悪口という形で出てくることがあります。
悪口というのはどうしてもこちらを否定するような形でやってきますし、言われた方は自分への攻撃のようなものですから、どうしても身構えてしまいます。
だけど、それを自分への攻撃や否定として捉えるより、相手の中にある「不満」だと思ってみることもできるかも知れません。
「自分への攻撃」として捉えるか、「相手の中にある不満」として捉えるかで、その後の自分の気持ちもガラっと変わってきます。
そう思ってみた時に例えば、相手に不満を与えていないか、自分は人とどんな風に向き合おうとしてきたんだろう、人の気持ちを無視してしまっていることはないか・・と自分を省みることもできると思うんです。
そうやって人からの悪口ですとか、批判をきっかけにして、自分を省みることが自分の成長につながることもあるかも知れません。
もっとも、誰かから好かれるということは、誰かから嫌われるということでもあって、心理学者のアドラーは「どんなことを言っても必ず嫌う人間はいる。それを気にしてはいけない」と語っています。
だから、全員に好かれることはできないのかも知れません。そして、全員に好かれる必要もないと思います。
ただ、そんな風にして、悪口を自分への攻撃ではなく、相手の中にある不満と捉えてみたり、または、悪口を自分を省みるきっかけにしてみる、何かそれを自分のために生かしてみようとすることで、悪口に対する感じ方も変わってくるかも知れません。
福山雅治さんが語った悪口を気にしない方法
ミュージシャンで俳優の福山雅治さんは、自分のことを褒めてもらうこともあれば、反対に悪口・陰口を「滅茶苦茶言われる」こともあるそうです。
そのことについて福山さんは自身のラジオでこんな風に語られています。
「僕らの仕事はある種の人間の心理を表していますよね。
例えば、僕なんかも応援してくれる人もいれば、滅茶苦茶悪口を言う人もいっぱいいます。
それはもう人間が共同で生活してゆく上で真実ですよね。
もし僕が(自分を悪く言う人に対して)そんなこと言わないでと言っても、そんなこと(その人達は)聞くわけがないんですよ。人間なんて陰口とか悪口大好きなんだから。
(悪口・陰口を言われても)楽しんだ方がいいですよ。(笑いに変えた方がいいという意味)僕はなるべく、陰口、悪口は楽しもうと思ってますよ。
腹も立ったり、傷つくこともあるけど、それは言ったってしょうがない。」(TOKYO FM 福山雅治 福のラジオ)
この言葉は福山さんが職場で陰口(悪口)を言われて困っているというリスナーのメールに対して語った言葉でした。
芸能人の方であったり、ミュージシャンの方もそうだと思いますが、脚光を浴びているような人は必ずといっていいほど、悪口を言われたり、批判されたりするものだと思います。
そういう方々はよく悪口や陰口を人が言ってくることに対して、「そういうものですから」とか、「仕方がない」といった発言をされることがあります。
「そういうものだ」と思うことはつまり、悪口を言う人、陰口を言う人をどうにかしようとはしていない・・ということでもあると思います。
そして、それが悪口や陰口を気にしないためには必要なことなのかも、知れません。
どうにかしようとすると、それが悩みになる
悪口や陰口を言われて悲しくなるのは、残念に思うのは、その悪口や陰口を言っている人が自分の一部分しか見ていないから・・なのかも知れません。
だから、「そうじゃないんだよ」と言いたくなったりします。
それに自分はこんなに悲しい気持ちになったんだとわからせたくもなったりする。
だけど、悪口や陰口を言ってくるような人は、そういう思いを知らないし、また、わかろうともしないことが殆ど・・だと思うんですね。
こんな時、「そういう人なんだ」と、相手を諦めることができたら、楽になれるのかも知れません。
先程の福山さんのお話ではありませんが、そういう人も世の中にはいるのだと、ある意味、諦めてしまった時、楽になれることがあります。
ところが、わからせてやりたい、そうじゃないと反論したくなった時、つまり、相手をどうにかしようとした時、それは悩みに変わってしまうのかも知れません。
悩みとは、どうにかしようとすることそのもの・・なのかも知れないですね。
「相手の問題」と「自分の問題」に切り離して考える
だけど、どうやったら、そういう人もいる、それが世の中というものなんだと諦めることができるのでしょうか?
相手をわからせてやりたい、反論したくなる理由の一つは、言われた悪口や陰口を「自分の問題」だと捉えているから・・なのかも知れません。
だけど、この問題は実は2つの問題から成り立っていると思うんです。
1つは、悪口や陰口を言った「相手の問題」。
もう1つは、それを気に病んでいる「自分の問題」です。
悪口や陰口というのは、その悪口や陰口を言った人の、人としての在り方を示しているのであって、その人が言った言葉は本当は言われた人をあらわしているわけではないと思うんですね。
というのも、人は自分、または自分の何かを守るために、人を悪く言うものだから、です。
(だから、悪口や陰口を自分のこととして捉える代わりに、この人は何を守ろうとしているのだろう?と考えた時、相手が何故そんなことを言ったのかが見えてくることがあります。)
そして、そういう風に考えた時に、その悪口や陰口というのは、言った「相手の問題」だと思えてくることがあると思います。
2つ目は、悪口や陰口を気に病んでいる「自分の問題」です。
悪口や陰口は誰にとっても嫌なものだと思います。
だけど、それをずっと気にして悩み続けてしまうようであれば、それは何か自分に問題があるのかも知れません。
向き合うべきなのは、「相手の問題」ではなく、「自分の問題」の方なんだと思います。
「お釈迦様が教えてくれた」悪口を気にしない方法
少し話が変わりますが、遠い昔にお釈迦様が語った悪口を気にしない方法があります。
ある時、お釈迦様は他人からの悪口や陰口のようなものを贈り物にたとえて、こんな風にお弟子さんに問いかけたそうです。
「例えば、誰かがあなたに贈り物を持ってきたとして、それをあなたが受け取らなかったならば、その贈り物は誰のものですか?」
お弟子さんはお釈迦様が言わんとすることに気づいてこう答えたと言います。
「それは、贈り主のものではないでしょうか」
お釈迦様はきっと、悪口は受け取らなければ、言ってきた人に返ってゆくんだよと教えたかったのだと思います。
お釈迦様はまた、悪口のような他人からの攻撃を「外からの矢」と表現されていますが、その矢は受け取らなければ、その矢を放った相手に突き刺さるのだと、そう伝えたかったのかも知れません。
自分を客観的に見ようとすると、他人の評価が気にならなくなる
他人の評価が自分の評価だと思っていると、人のちょっとした言葉で大きく動揺してしまったりすることがあります。
ただ、もし、他人の評価の前に、自分自身が自分をどう思うか?という自分自身の評価を大事にしていると、他人の言葉に大きく動揺してしまったりすることがなくなってゆくことがあります。
自分が自分自身をどう思うか・・・という自分自身の評価を大事にするとは、例えば、「オレ、最高!」と自分自身を高く評価すること・・ではなくて。
それは、自分を少し客観的に見る、理解するということです。
自分を客観的に見るのは、とても難しいものですが、少しづつ客観的に自分を見て、そして、良いところも、悪いところもひっくるめて、それが自分なんだと思えた時・・
他人の例えば、悪口であったり、マイナスな評価に対しても、それを言われたことはとても残念なことではあるけど、また、時には腹も立つことがあるけれど、だけど、その言葉に深く落ち込んだりすることはなくなってゆくかも知れません。
それは自分で自分をわかっているから、だと思うんです。
そんな風にして、自分の長所だけではなくて、欠点も受け入れようと、そんなことを続けてゆくと、不思議ですが他人の例えば、悪口や陰口、または批判なんかも、それほど気にしないで済む自分になれていることもあります。
自分はそんなことはしないと心に決めてしまうと楽になれる
ノートルダム清心学園でベストセラーとなった「置かれた場所で咲きなさい」の著者、渡辺和子先生(シスター)は、冷たい批判しかされなかったような時に自分に言い聞かせてきた言葉があったと語っていらっしゃいます。
それが、
「自分はどんなことがあっても、他人をわざと意地悪く批判するまい」(出典:幸せはあなたの心がきめる p.29 渡辺和子)
という言葉だったそうです。
そう心に決めてしまうと、不思議と心が楽になった、と。
自分を「意地悪く批判」されたりした時は、相手がどれだけ間違っているかをわからせてやりたいと・・つい思ってしまうものだと思いますが、そちらの道はその相手の言葉に自分がとらわれてしまう道なのかも知れません。
「自分はしない」・・そう決めた時は渡辺先生がおっしゃる通り、不思議と心がふっと楽になれたりします。
それはきっと相手を諦めたから・・なのかも知れません。
「相手はどうであれ・・・自分はしない。」
そう思った時、その思いの中に相手をどうにかしようという気持ちが入っていなくて、だから、ある意味その相手から自由になれるんだと思うのです。