虚しい気持ちの原因とその解消方法とは?
全てがうまくいっているわけじゃない。
うまくいかないこともあるし、辛いこともある。
でもだからといって、生活にそんなに不満ばかりがあるわけでもない。
それなりに人生を歩いてきたつもりなのに、何故か突然、意味もなく心が空っぽになってしまったり、虚しくなってしまって、そして、その後に寂しさがやってくる。
その虚しさ、寂しさは誰かに明確にこういうものという風には説明することができなくて、ただ、その虚しさは自分の心を包み込むようにして、目の前を真っ暗闇にしてしまう。
そんな虚しさに自分が押しつぶされそうになった時にはどうしたらいいのか・・?何が原因なのか?どうやったら、そんな気持ちから抜け出せるのか?
今回はそんなことについて考えてみたいと思います。
※突然やってくる虚しい気持ちは、燃え尽き症候群が原因になっているケースもあります。
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燃え尽き症候群、むなしさ、心がからっぽになる感覚からの抜け出し方
ただ、今回は、燃え尽きているわけではないのに、本当はこんなに虚しいと感じなくてもいいはずなのに、虚しく感じてしまう時にどうしたらいいか?ということについて見てゆきたいと思います。
目次
虚しさとは?虚しさを捨てるヒントとは?
虚しい・・そう思ってしまう原因も、勿論ですが、その人によって少しづつ違っているものだと思います。
冒頭でも書かせていただきましたが、燃え尽き症候群が虚しい気持ちの原因になっていることもあります。
また、虚しいというと、全て自分の心の(在り方の)問題のように思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、そうとは限らなくて、体の不調が虚しい、または寂しいという気持ちを引き起こしているケースもあるようです。
虚しさは、色々なことが原因になっているわけですが、今回はその中でも最も多いと思われる原因について考えてみたいと思います。
それは何なのか?
ということなのですが、その前に、虚しいという言葉を辞書で調べると、「空虚である。無駄である。かいがない」・・とあります。
少し言い換えると、
何だか心が空っぽになっているような感覚であったり、今の自分や自分の毎日に意味や意義であったり、または楽しさや喜びのようなものを見出せないでいること・・なのかも知れません。
少し話が変わりますが、
例えば、自分の中に「こんなことを達成したい!」という大きな目標があって、そこに向かって一生懸命頑張っていたとします。
こんな時、人は虚しいとは思わないと思うのです。
ところが、何かに向かって一生懸命頑張っているのだけど、実はそれは、今の自分が心から達成したいとは思えない(または思えなくなってしまった)目標だったとしたら・・?
その何かを続けることが、虚しいと思ってしまうかも・・知れません。
もう1つ、例えば、恋人と別れてしまってから、寂しくなることが多くなって、だから、以前はあまりそういうことはしない方だったけど、友達を誘って飲みに行くことが多くなったとします。
その時は楽しい気持ちになって、寂しさを忘れることができて、いい時間が過ごせたとします。
だけど、何故か、家に帰ってきて一人になったら、何だか虚しい気持ちになってしまった。
そんなこともあるかも知れません。
この2つの例の中に、虚しさというものが何なのか?何が原因なのか?また、どうやったら解消できるか・・・ということのヒントが隠れているように思います。
虚しさとは、自分が本当に望んでいることと現実のズレ
先程の2つの話の中にどんなヒントがあるのか?
・・ということですが、どちらも、自分が本当に望んでいるものがそこにない、ということなのかなと思います。
虚しさは、自分がやっていることと自分が本当に望んでいることにズレがある時に感じるもの・・なのかも知れません。
このズレは、本当に望んでいるものの代わりに何か別のものを求めてしまった時に感じることもあれば、本当に望んでいるものが何かはわからないけど、今やっていることではないとどこかで漠然と思っている時にも感じてしまうものかも、知れません。
もしそうだとしたら、このズレをなくしてしまうことで、虚しさというものも、消えてゆくかも知れません。
先ほどの2つ目の例の場合、自分が心から好きだと思える人、自分を心から好きだと思ってくれる人が本当は欲しいけれど、その人が今いない寂しさに耐えられずに、その寂しさを違う何かで埋めようとしたことで(ズレが生じて)、「虚しい」と感じてしまった・・のかも知れません。
この場合は、寂しさと戦ってでも、自分が本当に望んでいるような人と出会うために、今、少しづつでも行動に出てゆくことで、虚しさというものは捨てることができるかも知れません。
もっとも、それでも寂しさは残るわけです。(新しい恋人と出会うまでは)
だけど、この場合の寂しさは、本当の意味では、何か別のもので埋めることはできないのかも知れません。
また、その寂しさがあるから、人は人を求めるものだし、それが自分にとって本当に大切な人との出会いにつながってゆく・・ということもあると思うのです。
だから、そういう意味では、寂しさというものは、本当は自分の味方で、本当は自分にとって必要なものなのかも知れません。
もっとも、そういった範囲を超えた強い寂しさは、自分をどんどん苦しめてゆくもので、それはまた別の問題になってくるかも知れません。
そういった強すぎる寂しさについては、また別の機会に書いてみたいと思います。
さて・・
では、1つ目の例のように自分が進みたい道がわからなくなってしまった時や、自分が本当に望んでいるものが何なのかがわからない時はどうしたらいいでしょうか?
自分がやりたいことであったり、進んでゆきたい道が、例えば、以前ははっきりと自分でわかっていたのに、ある時から何故か、わからなくなってしまう・・ということもあるかも知れません。
それは自分のやる気、モチベーションの問題だけではなくて、人生のステージが変わることであったり、または、その時々の環境の中で、自分の体や心の変化に伴って、求めるもの、情熱を感じるものであったり、または楽しいと感じることも、少しづつ、変わってゆくものだと思います。
こんな時、やる気を持続できない自分を残念に思う方もいるかも知れませんが、それはもしかしたら、仕方がなかったことなのかも、知れません。
人が望むもの、欲求には段階がある
自分が本当に望んでいるものが分からなくなった時は、どうしたらいいか?・・ということですが、人が望むもの、欲求というのは色々な形があるようです。
それはその時々で変わってゆくもので、段階というものがあるのかも、知れません。
これをアメリカの心理学者、マズローは「自己実現理論」の中でまとめています。
詳しいお話はここでは省きたいと思いますが、簡単に説明すると、マズローは人には基本的欲求があって、それは下から
①生理的欲求・・・食事や睡眠など
②安全の欲求・・・健康でいること、安全な暮らしができること
③社会的欲求・愛の欲求・・・社会的な欲(仕事があるなど)、愛の欲(恋人、パートナーが欲しい)
④承認の欲求・・・自尊心など
⑤自己実現の欲求・・・なりたいものになる。本当にやりたいことをやること
があると言っています。(人はまず、①から順に満たそうとしてゆきます。いきなり⑤に行ったりはしません)
図にするとこんな感じです。
(人は下から順番に求めていきます。例えば、一番下の生理的欲求である、食べ物が食べられていないのに、真ん中の愛の欲求を求めるということはしません)
例えば、家族もいる、家も建てた、友達もいるし、仕事も人並みにはうまくやっている。だけど、時々、虚しくなる。心が空っぽになるような感覚になる。
そんなこともあるかも知れません。
これは幸せではないから・・ではないかも知れません。
ただ、もしかしたら、自己実現理論で言うところの、一番上の段階。自己実現の欲求の段階に来ているのかも知れません。(ただし、これは人としてのレベルのようなものではありません。あくまでも「欲求」の段階を示したものになると思います)
この話は長くなりそうなので、別の機会にさせていただきたいと思いますが・・
ただ、そんな風にして、人にはその時々で求めるものが変わってゆくこともあるのかも、知れません。
虚しくなってしまった時は、その欲求が一つ上の段階に来ていて、そして、まだ、その段階の何を自分が本当に望んでいるのかが見えていない状態、なのかも知れません。
もっとも、自分が本当に望んでいるものであったり、求めているものは、すぐには見つからないこともあるし、それが見つからない時は苦しいものですが、ただ、それでも負けないで、探し続けてゆくことで、そこには、今の自分が本当に望んでいる何かがあるかも、知れません。
嬉しい、楽しいのスイッチはなくなったりしない
自分が本当に望んでいるものであったり、求めていることというのは、自己実現理論で言えば、その段階によって変わってゆくものなのかも知れません。
また、人生のステージ、自分の経験や年齢であったり、そういうものによっても、変わってくるものだと思います。
だから、5年前に自分が心から望んでいたことが、ずっと続くとは限らないと思うのです。
今は、もっと違うものを自分は望んでいるのかも知れないわけです。
ただ、いずれにしても、虚しくなってしまった時、そして、自分が本当に望んでいるものがわからなくなった時は、一度、自分自身とじっくり向き合ってみてもいいのかも知れません。
自分と向き合って何をするかというと、自己分析です。
自分を分析するには、自分に問いかけてゆきます。例えば、
自分はどんなことが好きなのか?
自分はどんなことをやりたいのか?
自分はどんな時に楽しいと思うのか?
自分はどんな時に嬉しいと感じるのか?
自分はどんな時に幸せだなと思うのか?
そんな風に自分のことを自分自身に問いかけてゆきます。
人の脳は問いかけに答えるのは得意なので、例えば、「あぁ、自分は動いて汗をかくことに喜びを感じるのかも知れないな」とか「あぁ、自分は自然が豊かなところが本当は好きなのかも知れないな」とか「あぁ、自分は人に喜んでもらえた時に嬉しいと思うんだ」・・そんな風に、答えが少しづつ出てくるかも知れません。
だけど、こんなことをしなくても、自分のことは自分でよくわかっているはず・・と思ってしまいますが、人は案外、自分自身のことをわかっていなかったりします。
例えば、友達に「○○ってこんなところがあるよね。」と言われて「え!?そうかな?」なんて思うこともあると思うんです。
それは、自分には見えなかった自分の一面が、友達には見えたから・・かも知れません。
また、世の中のものは全てが少しづつ変わってゆくもので、それは自分自身も例外ではなくて、見た目もそうかも知れませんが、自分の心も少しづつ、自分が楽しいと思うスイッチのようなものも、ちょっとづつ変わっていくものかも、知れません。
だから、以前、楽しいと思っていたスイッチをいくら押しても、楽しいとは思えなくなって、虚しくなったり、または寂しくなったりすることもあるかも知れません。
ただそれは、楽しいとか嬉しいのスイッチの場所が少し変わっただけで、そのスイッチそのものがなくなったわけではないと思うのです。
そのスイッチは、自己分析を続けてゆけば必ず見つかります。
さて、虚しいという気持ちについてここまで見てきました。
虚しいという気持ちは、なかなか、人には伝わらないもので、また、なかなか、口にはできないものではないかなと、思います。
だからこそ、それは孤独な戦いになることも多いものだと思います。
ただ、その先には、これからの自分に必要な何か、心から楽しいと思える何かであったり、人との出会いであったり、または、自分の人生を輝かせてくれる何かであったり、そんなものが待っているのではないかなと、僕はそう思っています。