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自分の幸せを友人に喜んでもらえないと悩んだ時は?

「自分の家を新築したので、昔から仲の良かった友人達を呼びましたが、その中の一人が、全く興味も持ってくれず、私が家を建てることができたことを喜んでくれませんでした。本当に友達なんだろうかと、悲しくなりました。」

そんな風に話してくださった方がいました。「こんな時はどういう風に考えたらいいのでしょうか」と。

今回はこの場をお借りして、自分の幸せや成功を友人が喜んでくれないことについて、少し考えてみたいと思います。

何故、喜んでもらえないの?

冒頭の方のお話からは、恐らく、苦労されて、そして、家をやっとの思いで新築したのだと思うのですが、家そのものに興味を持ってもらえなかったこともそうだと思いますが、その努力や苦労をわかってもらえなかったことも、とても悲しいことだったのではないかなと、思いました。

人の幸せというのは、時に、喜ばしいことでもあるし、また、人によっては、素直に喜べないことにもなるかも、知れません。

でも、何故、友達の幸せや成功を素直に喜んでくれないのでしょうか。

それはきっと、色々な理由や事情があると思うのです。

例えば、借金で毎月苦労している時に、友人が立派な家を建てたと聞いても喜べない人もいるかも、知れません。

それは、そこで喜んでしまうと、今、苦労している自分がみじめに思えてしまったり、自分が情けなく思えてきてしまうから・・かも知れませんし、他にも何か理由があって、喜べないというケースもあるかも知れません。

また、少し話は違いますが、妊娠したことを友達に喜んでもらえないと悩んでしまう方もいます。

何故喜んでもらえなかったのかを後々になって聞いてみたら、これまでのように一緒にいる時間がなくなるから、子供に自分の友人をとらえてしまうように感じたからと教えてくれた・・そんなケースもあります。

色々な事情があって、喜べないのかも知れません。

ご友人も本当は喜びたいと思っているのかも知れません。ただ、何か事情があって喜べないでいるだけなのかも。

それが何かはわからないし、本当は何があっても友人の幸せなのだから、喜べたらいいと思うんですね。

自分が辛くても、友達の幸せは喜べる自分でいることは、友達としては大切なことなのだと思います。

だけど、何故、喜べないんだと考えると、どんどん自分が辛くなってゆくと思います。

だから、そうではなくて、何か相手にも事情があるのだろうと、そう考えてあげることも一つの自分が悩まないための、自分が笑って過ごしてゆくための方法なのかなと、思います。

相手と自分の問題を切り離してみる

仲がいいと思っていた友人が、たとえ事情があったとしても、自分が苦労して手にしたものを喜んでくれないのは、とても残念で悲しいことだと思います。

そんな時、相手に対して間違っていると伝えたいと思うと、余計辛くなったりして、悩み続けてしまうこともあるかも知れません。

そんな時は、自分の「悩み」をまず、「問題」に置き換えてみます。

そして、その問題を2つに切り離してみます。

この問題(悩み)は1つの悩みのように見えますが、実は違うと思うのです。

本当は2つの問題から成り立っています。

どんな問題かというと・・

1つは、友達の幸せを喜べないという、相手の問題です。

もう1つは、わかってもらえなくて悲しいという自分の問題です。

「友達の幸せを喜べない」というのは、相手の問題です。喜べない何か、問題(事情)があるのかも知れない。何があったとしても、それは言い訳にはならないとは思います。

だけど、それも含めて、相手の問題だと思うのです。

一方、「わかってもらえなくて悲しい」というのは自分の問題です。

相手の問題は相手の問題で、自分にはどうにもできないと思うのです。それは相手の問題で、また、人は人に言われて変わりたくはないものだと思うから、です。

しかし、自分の問題であれば、自分のことですから、変えることはできるかも知れません。

わかってもらえないと悩んだ時にできること

そうやって問題を1つではなくて、2つに切り離してしまった後でできることがあります。

それは何かということですが、人間関係でわかってもらえないと悩んだ時に効果的なことが1つあります。

それは、「わかってみようとすること」です。

自分のことをわかろうとしない友人のために何故、そんなことをしなくてはいけないのか?・・そう思われるかも知れません。

ただ、わかってもらえないと思い悩んだ時には、反対のこと、つまり、わかってみようとすることでそのわかってもらいたいという気持ちを手放せることがあります。

わかってもらえくて悲しいというのは、わかって欲しかったという気持ちがあったためですが、わかって欲しいという気持ちは、相手をわかってみようとすると、何故か手放せることがあります。

「友達の幸せや成功を喜べることが友達のあるべき姿だとは思う。だけど、あいつにも、事情があるのかも知れないな。今は気持ちに余裕がないのかも知れないし、何か人に言えない辛いことを抱えているのかも知れないな。」

例えば、そんな風に、相手をわかろうとしてみると、「じゃあ、仕方がないのかも知れないな」と「わかって欲しかった」という気持ちを手放せることもあります。

わかって欲しい気持ちをわかろうとすることで手放せる・・・というのはとても不思議なものだと思います。

感情的になり過ぎてしまう時は、近すぎると言う合図

友人に対して、感情的になってしまうことってあると思うのです。

人間関係ですから、いつも完璧にうまくいくとは限らないと、思います。

だけど、もし、感情的になり過ぎてしまっていると感じた時、例えば、友人に求め過ぎてしまって、それが原因で自分が苦しくなっているような時は、少し、相手との距離が近すぎるというサインなのかも知れません。

人間関係には、良好な人間関係を保つには、たとえ、近い関係の友人であっても、適度な距離感が必要なのかも知れません。

例えば、仲のよい友人に対して、適度な距離を保つなんていうことは、何だか寂しいことのように聞えます。

昔の僕自身、そんな風に思っていました。

だけど、適度な距離を保つということは、相手を尊重することでもあるのかなと、思うようになりました。

相手に近づき過ぎると、近すぎて、相手がよく見えなくなることがあります。

ちょっと離れてみると、少し相手のことが見えたりします。あぁ、疲れているのかなとか、相手を観察できる余裕が生まれたりします。

適度な距離は相手によっても変わってくると思います。

例えば、心に余裕のある人に対しての距離と、心に余裕がなくなってしまっている人に対しての距離は変わってくるかも知れません。

じゃあ、どうやって適度な距離を見分けたらいいか?ということですが・・

「なんか違う」と思った時は、もうその適度な距離を超えているのかも知れません。なんか違うと思った時が最初のサインだと思うのです。

そんな時はさっと、一度離れてみると、冷静になれるかも知れません。

離れてみると、少し、相手の何か、事情であったり、そういうものを考える心の余裕が生まれます。

そして、その心の余裕を持っていられるだけの距離をその時々で保ってゆくことが、(難しいことではありますがそれが)大人になってからの友人との付き合い方なのかなと、思います。

環境が変わってから、友達とすれ違ってしまう、分かり合えない

環境が変わって、例えば、学生から社会人になったり、結婚したり、子供が生まれたり、または引っ越しをして生活環境が変わったりすることで、それまで仲が良かった友人と少しづつすれ違うようになってしまうことがあります。

例えば、学生の頃は何でも、喜びも悲しみも分かち合えたのに、社会人になってから、次第にすれ違うようになってしまった・・そんなこともあるかも知れません。

人生には色々なステージが用意されていて、学生の頃は同じステージにいたのに、社会人になったりして、環境が変わると、複雑なステージがいくつも用意されていて、それぞれが自分の進むべき道へと進んでゆきます。

学生という同じステージにいた頃と違って、社会人になってからは、例えば、上司というステージであったり、夫というステージ、妻というステージ、主婦というステージ、親になるというステージ・・・様々なステージがあって、そこを上ってゆきます。

学生の頃、クラス替えの後に、以前親しかった友人と遊ばなくなったりすることがあるように、社会人になってから、それぞれが違うステージに進んでゆくと、そのステージの違いが、すれ違いの原因になっていったりすることもあるかも知れません。

ステージが変わると、どうしても、お互いのことを学生の頃のように理解し合うことが難しくなってゆきます。

それは、相手のステージについて、お互いが知らないから。

それは悲しいことだけど、それはお互いに成長してゆく上で、人生という道を進んでゆく上では、避けて通れないことなのかも知れません。

だけど、以前も書かせていただきましたが、だからといって、ずっと分かり合えないかというとそうではなくて、いずれまた、お互いのステージが重なることだってあると思うのです。

今ではなくても、いつか、何かのきっかけでわかりあえるようになることってあると思うのです。

本当の友人とは、不思議なご縁があるもので、例え、心が遠く離れてしまったとしても、それでも、どこかで細い細い糸のようなもので、つながってさえいれば、また、いつか、お互いが笑顔で話せる日が、分かり合える日がやってくることもあるのではないかなと。

そんな風にして、時間がすれ違いを解決してくれることもあると、僕はそう思っています。