毎日同じことの繰り返しは悪いことじゃない。当たり前の中に幸せが隠れている
「毎日同じことの繰り返しで、時間を無駄に使っているような気がします。」
そんな風に話してくださった人がいました。
そうですね。毎日同じことの繰り返しで変化がないと思ってしまうと、なんだか時間だけが進んでゆくような気持ちになってしまうこともあるかも知れませんね。
ただ、それでも、毎日同じことの繰り返しでも、それが幸せだと感じている人も大勢います。
その違いは、何なのでしょうか。
今回はそんなことも含めて、毎日同じことの繰り返しということについて、また、そんな日々を退屈だと感じさせてしまう原因について、見てゆきたいと思います。
【世界一簡単】やりたいことが見つからない人のためのやりたいことの見つけ方
目次
- 毎日同じことの繰り返しは悪いことじゃない
- 「当たり前」が同じことの繰り返しを退屈だと感じさせる
- 他人の毎日が羨ましいと思ったら
- 多くの人の毎日は同じことの繰り返し
- 「何をするかより、どんな気持ちでするかが大切」
- 代わり映えしない毎日の中に本質的な幸せがある
毎日同じことの繰り返しは悪いことじゃない
毎日同じことの繰り返しというと何だか悪いことのように考えてしまう人もいらっしゃるかも知れません。
だけど、僕はそんな風には思いません。
毎日同じことの繰り返しの日々は、安定感のある日々でもあると思うからです。
「変化のある毎日を送りたい」
毎日同じことの繰り返しだと思ってしまった時はそんな風に思うこともあるかも知れません。
変化のある毎日は、確かにエキサイティングな毎日かも知れません。だけど、それは安定感に欠ける毎日でもあって、最初は良くてもいずれ疲れてしまったり、そんな変化のある毎日にいつかはストレスを感じてしまうかも、知れません。
というのも、人は元々、安定を求める生き物だからです。
放送作家、作詞家、プロデューサーといった顔を持つ秋元康さんは、著書の中で、「人は潜在意識として、どんな刺激的な仕事であっても安定させようとするもの」だと語っていらっしゃいます。
秋元さんのような人だと、さぞかし変化や刺激のある毎日なのだろうと思ってしまいますが、秋元さんは自分の仕事はどの仕事も最初は刺激的でも、いずれ単調になってくると言います。
「仕事とは、もともと単調なもの」だと。
どんな仕事も、それは営業職でもプロデュース業でも主婦業でも、本質的に仕事というのは単調なものなのかも知れません。
基本的には、同じことの繰り返しなのだと思うのです。どのような仕事も。
そして、それは決して悪いことではなくて、人は潜在的にそういったこと、刺激よりも安定を求めているのだと思います。
もっとも、安定の中に少し刺激を加えてみるのはいいかも知れません。ただ、刺激が多い毎日では、人はいつか疲れてしまうのではないかなと思います。
「当たり前」が同じことの繰り返しを退屈だと感じさせる
人は「当たり前」だと感じる物事に対して、「感謝」や「幸せ」「喜び」といったことを感じにくくなると言われています。
だから、日々の暮らしの中に「当たり前」が増えていくと、「ありがたいなぁ」と感じることや「幸せだなぁ」、「嬉しいなぁ」と感じることが減ってゆきます。
そして、それが退屈な毎日につながってしまうこともあります。
冒頭の毎日同じことの繰り返しでも幸せだと感じている人とそうでない人の違いですが、その違いは「当たり前」の多さの違いなのかなと思います。
どちらも同じことの繰り返しには違いないわけです。
ただ、違いは、その暮らしの中にどれだけ「当たり前」があるか・・ということなのかなと。
毎日同じことの繰り返しでも幸せに生きているという人はきっと、日々の暮らしの中に当たり前が少ないのではないかなと思います。
反対に毎日同じことの繰り返しを退屈に感じてしまっていたり、そんな毎日に気持ちも落ち込んでしまうという人は、もしかしたら、日々の暮らしの中に当たり前が多くなり過ぎているのかも知れません。
例えば、自分の旦那さんが働いてくれていること。自分の奥さんが家事をしてくれていること。
これも最初は「ありがたいなぁ」と思えても、それをいつか「当たり前」に思ってしまうことがあるかも知れません。
例えば、仕事があること。
最初に面接に合格した時は「やった!」と嬉しくて、感謝していたのに、そのうち、その仕事があることが当たり前になってしまうこともあるかも知れません。
ただ、「当たり前」に思ってしまった途端にそのことに対して、感謝や喜びといったものを感じられなくなってしまう。
ところで、人には、環境に順応する能力があります。
いつまでも環境に慣れることができなければ、ずっとその刺激に対するストレスを受け続けるわけで、大変なことになります。
だから、慣れるというのはとても大切な能力だと思うんです。
ただ、その慣れる、順応する能力が働きすぎると、色々なことが当たり前になってしまうことがあります。
だけど本当は、旦那さんが家族のために働いてくれていることも、奥さんが家族のために家事をしてくれていることも「当たり前ではない」のだと思うんですね。
例えば、独身の頃を考えたら、それは決して当たり前ではないわけです。
仕事があることも、今、リストラされて仕事を失っている人のことを思えば、働けることは当たり前ではないことに気づきます。
もし、毎日同じことの繰り返しであることを退屈に感じたり、日々の中に「感謝」「楽しい」「嬉しい」といった感情を持てなくなった時は、自分の中で当たり前になってしまっているものを探してみるといいかも知れません。
そして、その当たり前になっていることが当たり前ではないことに気づいた時、「感謝」や「楽しい」「嬉しい」といった感情も戻ってくるかも。
そういった当たり前の中に埋もれてしまっている幸せであったり、喜びであったり、楽しさであったり・・そういったものは沢山あるかも知れません。
他人の毎日が羨ましいと思ったら
「単調な毎日だな」
「同じことの繰り返しだな」
そんな風に思っている時は、他人のことが羨ましく思えてくるかも知れません。
「私は主婦で、同じようなことの繰り返しの毎日ですが、友達はバリバリ働いていて、それが羨ましく思えて仕方がありません。」
そんな風に話してくださった人もいました。
確かに、自分が選ばなかった道を選んだ人が羨ましくなるというか、人のやっていることが羨ましいと思ってしまうことってあると思うんですね。
そんな時は相手のいいところばかりが見えたりします。
だけど、本当はいいことばかりではないと思うんです。
キャリアウーマンでバリバリ働いているご友人も、会社では例えば、上司に怒られたり、お客さんから文句を言われたり・・大変なこともあるかも知れません。
主婦という仕事に大変なことがあるように、キャリアウーマンにも大変なことがあると思うんです。
だけど、人を羨んでいる時は、相手のいいところしか見えていなくて、視点がとても狭くなってしまっていたりします。
そんな時はもっと、相手の全部を見ようとしてみてもいいのかも知れません。
相手の羨ましいと思うところだけではなくて、もっと全部、例えば、相手の大変だろうなと思うところ、やりたくない仕事もあるだろうなとか、会社や上司から理不尽なことも言われるかもなとか・・そういったことも考えてみます。
そうやって、相手の全部を見ようとした時、「私は今のままでいいかな」と思えてくるかも、知れません。
多くの人の毎日は同じことの繰り返し
毎日同じことの繰り返しだと思ってしまっている時は、もしこうだったら、もし、こんな仕事だったら、変化があって退屈な毎日ではないのに・・例えば、そんなことをつい考えてしまうかも知れません。
ただ、先ほどの秋元さんのお話ではありませんが、人の毎日というのは、どうしても単調になってゆくもの、同じことの繰り返しになってゆくものかも知れません。
それはどんな仕事、暮らしでも基本的にはそうだと思うんですね。
だから、多くの人は言ってみれば、毎日似たようなことの繰り返しなのだと思います。
ただ、それを「同じことの繰り返しの毎日」だと捉える人もいれば、「不自由のない安定した毎日」だと捉える人もいるし、「楽しい毎日」だと捉える人もいる。
その違いは、先ほどの「当たり前」の話もそうですが、どんな気持ちでその毎日と向き合っているかの違いなのかも知れません。
「何をするかより、どんな気持ちでするかが大切」
物事というのは、何をするかということも勿論大切なのですが、どんな気持ちでするか・・ということも、感じ方という意味ではとても大切になってくるようです。
これは知人の男性の例ですが、彼はあるレストランで料理人をしています。
実は彼、以前はよく気持ちが落ち込んでいたのだそうです。
料理人になりたいと憧れてその業界に入って、最初の数年は新しいこと、学ぶべきことの連続だったのですが、3年が過ぎた頃から、毎日同じようなことをしていると感じるようになったそうです。
勿論、毎日同じ料理だけではなく、違う料理も勿論作るわけですが、やっていることは似ていて、考えてみたら、同じことの繰り返しだなと。
そして、これがずっと続くのかなと思ったら、何故かとても虚しくなったのだとか。
ところがある日、自分のモチベーションを何とか上げる方法はないかと試行錯誤していた時、お客さんの喜ぶ顔を思い浮かべて仕事をしてみようと思ったのだそうです。
たったそれだけだったのに、その後は仕事に対する感じ方が変わっていって、実際にお客さんに喜ばれることも増え、毎日が楽しいと感じるようになったそうです。
その時、「何をするかより、どんな気持ちでするか」ということの方が大事であることを知ったそうです。
代わり映えしない毎日の中に本質的な幸せがある
人は元々刺激を避けて、安定を求める性質がある・・先ほどはそのように書かせていただきました。
刺激というのは、エキサイティングなことで時にそれが人生にはよいスパイスになると思うんです。
だから、刺激が少ない毎日に飽きてきたら、ほんの少し、そういった刺激というスパイスを加えてみるのもいいかも知れません。
小さなことでもいいので、何かに挑戦してみたり、一生懸命になれるになれる何かを見つけたり、没頭できる何かを探したり・・
そんな何かが毎日に楽しみを与えてくれることもあると思うんです。
ただ僕は、本質的な幸せはどこにあるかといったら、それは代り映えしない毎日の中にあるんだと思うんですね。
少し言い換えると、ちょっと気を抜くと「当たり前」に思ってしまうようなことの中に、本質的な幸せがあるというか。
これはどこか、風邪を引いて、熱を出して寝込んだ時にはじめて、「何でも食べられること」、「体がどこも痛くないこと」が当たり前ではなく、幸せなことだったんだと気づくことに似ていて。
病気になって、食べたいものが食べられなくなった時にはじめて、「好きなものが食べられるってこんなに幸せなことだったんだね」、「健康でいられることって本当はこんなに幸せなことだったんだね」と気づけたりします。
好きなものが食べられることも、健康でいることも、一つ間違うと当たり前のように思ってしまいますが、それが当たり前ではないことに気づいた時に、幸せな気持ちになれたりします。
本当の幸せというのは、そんなどこか当たり前に感じてしまいやすいことの中、代わり映えしない日常の中にあるのではないかなと、そう思います。
同じことの繰り返しの毎日の中にはもしかしたら、そんな本質的な幸せが沢山隠れているかも知れません。