依存されることに疲れたら。依存されない人になる方法とは?
例えば、友人や知人から、または、ネット上でつながりのある人など、誰かから依存されてしまって、疲れてしまうようになったり、もう嫌だと思ってしまう。そんなことがあるかも知れません。
最初は親切のつもりでやっていたことを勘違いされるようになったり、優しさを利用されるようになったり、時にはつきまとわれるケースもあります。
今回は、何故、依存されてしまうのか? 何故、依存してくるのか?、そして、どうやったら依存されない人になれるか?ということについて考えてみたいと思います。
何故、依存されてしまうのか?
誰かに依存されてしまった時、最初は自分が必要とされているような感覚になることがあるかも知れません。
そして、そこに何か自分の存在価値であったり、存在意義を感じたりすることもあるかも知れません。
だけど、今回の記事のタイトルのように、次第に依存されることに疲れてくることもあるかも知れません。
最初は相手を何とかしてあげたくて、相手を救いたいと思うことであったり、そんな風に最初は親切心であったり、優しさから・・・相手に手を差し伸べようとしたことがはじまりであることもあるかも知れません。
そして、そうすることで相手が喜んでくれるのであれば、自分も嬉しい気持ちになるものだと思いますし、頼られているという思いは自分を強くさせてくれたりします。
ところが、いくら手を差し伸べても、いくら同情しても、いくら励まそうとしても、全然立ち上がろうとしてくれないと気づいた時、自分は依存されていることに気づいたり、そんな風にして依存されることに疲れたり、嫌になったりすることがあるかも知れません。
依存されるというのは、相手をおんぶしたまま、または相手に寄りかかられたまま・・歩いてゆくようなもので、いつかは、その重さに耐えられなくなって、自分まで倒れてしまうかも、知れません。
でも、何故、依存されてしまうのでしょうか?
それは、手を差し伸べたことがきっかけだったとしても、その手を差し伸べたことそのものはむしろ良いことだと思うのです。
だけど、手を差し出して、立ち上がるのを手伝ってあげるのは良いことでも、(たとえ転びながらでも)本当は自分の足で歩ける人を支え続けようとした時、依存されてしまうことがあります。
人に依存する人(依存をやめようとしない人)の多くは、最初から自分一人で立ち上がるつもりがないことが多く、また、自分一人で歩いてゆくつもりもないことが多いため、いくら助けようと思っても、いくら励まそうと思っても、その思いが相手に本当の意味では伝わらないことが多いかも知れません。
その残念な気持ちがいつかは(相手に)利用されているという思いに変わり、だからこそ、依存されることに疲れたり、嫌になったりするものだと思うのです。
また、依存されてしまうもう1つの理由は、自分を犠牲にしていること、かも知れません。
依存されてしまう人は断れない人であることが多く、断れずに自分を犠牲にし続けた結果、依存されてしまうこともあります。
ところが、そんな風にして自分を犠牲にしているのに、相手にはそれが伝わらないことが多いもので、それがまた残念な思いに変わってゆくことがあるかも知れません。
何故、断れないのか?
じゃあ、何で断れないのか?と周りの人には言われるかも知れません。
断れないという人、これは以前の僕もそんなところがあったのですが、そんな人の場合、嫌だなとか、気乗りしないなと思った時は本当は我慢しなくてもいいことに(多くの人はそんな時我慢しないことに)気づくまでに長い時間がかかることがあります。
それは例えば、断ることができない環境で育ってきたことであったり、我慢することで自分を保とうとしてきたことであったり、色々なことが関係しているのかも知れません。
ただ、先ほどのように、本当は(多くの人は)嫌だなとか気乗りしないなと思った時は我慢したりしない(我慢しなくていい)・・ということに気づくと、気持ちは楽になれることがあるかも知れません。
我慢しなくていいんだ、と。
断ってもいいんだ、と。
そんな、言ってみれば多くの人にとって当たり前のようなことに気づくだけでも、楽になれたり、断る力が持てるようになることがあるのかも知れません。
依存されない人になるためにはそんな風にして、「自分を犠牲にしない勇気」が必要なのかも知れないですね。
頼られても寂しさはなくならない
また、頼られることで自分の中にある何らかの寂しさを忘れることができる・・そんな風に心のどこかで感じていることも依存されてしまう原因になっていることがあります。
頼られるということは、「自分に」興味関心を持ってもらえたという風に感じて、そして、「自分が」必要とされたと感じて、だから、寂しさを感じなくて済む。
そんなこともあるかも知れません。
ところが、依存してくる人(依存をやめるつもりのない人)は多くの場合、本当の意味で「あなた」に興味関心があるわけではないことが多いようです。
これはどういうことかと言うと、依存してくる人は、「自分を支え続けてもらうこと」に興味があるのであって、相手に「自分を受け入れてもらうこと」には興味があるけれど、相手そのものに対する興味関心は案外薄いことが多いようです。
だから、自分のことは何でも聞いてほしいと思っていても、例えば、相手の都合を考えたり、相手の立場になれない。
また、同じように依存してくる人は「あなた」が必要というより、「支えてもらうこと」が必要なのであって、だからもし、「あなた」が転んでしまって立てずに苦しんでいる時、今度は自分が逆の立場になって何でもしてあげたいとは・・思わないことが多いようです。
自分に興味関心を持ってもらえた、自分が必要とされた・・と感じているのに、本当はそうではなかったと気づいた時、依存されることが嫌になってしまうものかも知れませんし、同時にそんなことに気づくことで、依存されやすい自分から抜け出せるのかも、知れません。
頼られることで自分の中にある寂しさを忘れることができる・・というお話に戻りますが・・
本当の意味では頼られることでは寂しさを手放すことはできないのかも知れません。
寂しさは生きている以上は誰もが持って生まれた宿命のようなもので、忘れることはできても、本当の意味では捨てることはできないものだと思うからです。
依存されることで一時寂しさから楽になれても、その後で、もっと寂しくなってしまったり、むなしくなってしまうこともあるかも、知れません。
それは、頼られたり、それがエスカレートして依存されても、本当の意味での寂しさはなくならないから、なのかも知れません。
依存されない人になるためには、場合によってはその寂しさと向き合ってみる必要があるのかも知れません。
また、これはまた別の機会に書かせていただきたいと思いますが、寂しさは癒そうとすることもできるのですが、もっと別の使い方もあるのかも知れません。
本当の優しさとは?
少し話は変わりますが、優しさとは何か・・そう考えていった時、それは思っていたよりも限定的なものであることに気づきます。
優しさは限られていて、だから、誰にでもいつでも優しくしようと思うと、いつか、自分の中にある優しさがなくなってしまって、もう優しくできないというところまで来ることがあります。
優しさは自分の中にあるもので、それは増えたり、減ったりするようです。
それは言い替えると、心の余裕のようなものだと思います。
精神的に一杯一杯で、心に余裕がない時は、人に優しくするのが難しかったりするのはそのため、かも知れません。
ただ、いずれにしても、その心の余裕も増えたり、減ったりするもので。
そして、それは限りがあるものである以上、優しさは使いたい時にだけ使うようにしないと、つまり、誰にでもいつでも、どんなことでも優しくしようとしてしまうと、心にある優しさがなくなっていって、自分の大切な人のために使う優しさまでなくなってしまうことがあります。
本当の意味で優しい人は、限られた人にだけ、限られた時にだけ、その優しさを使っていることがわかります。
例えば、誰かを助けようとする時であっても、本当にその人は助けを必要としているのか、助けることが本当にその人のためになるのかと、見極めていたりする。
そんな人はいつも心に余裕があるように見えて、精神状態も安定しているように見えたりします。
それは自分の優しさ(心の余裕)の使う先を限定しているから、なのかも知れません。
自分が嫌だなと思ったことまで、また、自分を犠牲にしてまで、人を助けようとすることが必ずしも優しさではないのかも知れません。
そして、そこで勇気を持って断ることが、自分の大切な人のために使う優しさ、本当の意味で自分を必要としている人への優しさにつながってゆくのだと思います。
自分の足で立ち上がらないと強くなれなない
相手を助けたい・・そういう気持ちだったのに、結果的に相手に依存されてしまうこともあります。
相手を助けたいと思ったのは、色々な理由があるのだと思います。
相手のことを思った時、直接手を貸したり、助けようとするのも一つの方法だと思います。
ただ、転ばないように、または転んでしまった人に手を差し伸べることが相手のためにならないこともあります。
転んでみてはじめて、気づくことがあります。
転んで、自分の足で立ち上がるからこそ・・学べるものがあります。
立ち上がって、また転んで、それでも「なにくそ!」と(精神的に)立ち上がった経験が、自分のその後の人生の支えになることだってある。
そういう意味では、悩んだり、苦しんだりすることも、本当は誰だってしたくはないけれど、そこから立ち上がることが、自分を何よりも成長させてくれたりするのかも知れません。
少なくとも僕はそう思うようになりました。
以前の僕はそうではありませんでした。
自分の色々な経験から、辛さがわかったりする。だからこそ、何とかしてあげたいと、誰に対しても、そう思ってきました。
ところが、それはある意味、その人の成長の機会を奪ってしまうことだったのかなと、そう思うようになりました。
何かをやってあげたい、助けたいと思うことが必ずしも、相手のためにはならないことにやっと、気づいたのです。
僕自身の話からは離れますが・・
もっとも、倒れている人がいて、そして、その人を助けたいと思えたなら、その人に手を差し伸べることはそれは素晴らしいことだと思います。
ただ、本当は自分の力で立てる人を支え続けようとするのは、それは本当の意味では相手のためにはならないのかも知れません。
人に依存されてしまうという方の多くは色々な意味で力のある人というか、強さのある人というか、そんな人であることが多いようです。
また、自分だけじゃなくて、誰かのためにと思える人というか。
そんな人を本当の意味で必要としている人はもっと別のところにいるのかも、知れません。