完璧主義の4つの治し方、やめる方法とは?
前回、完璧主義の2つの根本的な原因。完璧主義をやめたいと思った時は?では、完璧主義の2つの根本的な原因について見てきました。
今回はその続き、今度は完璧主義の治し方になります。
前回の記事でも完璧主義を治すためにできることやその考え方について少し触れましたが、今回は、もっと具体的に完璧主義をやめたいと思った時にはどうしたらいいか?ということについて見てゆきたいと思います。
自己評価と完璧主義
完璧主義の2つの根本的な原因。完璧主義をやめたいと思った時は?では、(完璧主義の原因の1つとして)自己評価が低いことが完璧主義につながっているケースについてご紹介しました。
前回も書かせていただきましたが、
例えば、親に褒められることがなく、叱られてばかりの子供の場合、自分はダメなんだと、そう思ってしまうことがあります。
親に認められてこなかったことで、自分のままではダメだ、自分はダメなんだと自己評価が低くなり、また、自己否定感も強くなってしまうことがあります。
その結果、親に認められるために、または親に愛されるために、今よりも優れた自分になろうとしてしまう・・そんなこともあるかも知れません。
それが自分に完璧を求めてしまう気持ちにつながっていることがあります。
そうやって完璧な自分じゃないと、認めてもらえない、受け入れてもらえない、愛してもらえないと感じて、完璧主義を手に入れてしまうこともあるようです。
このお話の続きは完璧主義の2つの根本的な原因。完璧主義をやめたいと思った時は?で書かせていただいているので、この辺にしたいとい思いますが、大人になってからの完璧主義もこの、自己評価の低さが関係していることがあります。
そして、自己評価を高めてゆくということで、完璧主義も自然と手放せた・・という人もいます。
自己評価を高めるにはどうしたらいいか?
先ほどは、(完璧主義の原因の1つとして)自己評価が低いことが、完璧主義につながっているケースについて書かせていただきましたが、この場合、どうやって自己評価を高めてゆけばいいのでしょうか?
そのやり方はきっと色々とあると思います。
ただ、今、一つ挙げるとすると、人の評価で自分を判断する・・ということをやめるということがその一つの方法なのかなと、思います。
例えば、子供の頃は、大人と違って知識も経験もありません。だから、自分で自分を評価するといっても、なかなか、難しいかも知れません。
それに子供にとっての大人(親)というのは、絶対的な存在であり、自分の価値観に大きな影響を与える人であることが多いと思うのです。
ただ、大人になってからは違います。
自分で、自分のことを評価、判断することができます。
人の評価が大切になってくることも勿論あると思います。
ただ、本当の意味での自分自身を判断するのに、人の評価を基準にしようとすることには、2つの問題があります。
1つは、人の評価はわかれやすいということです。
例えば、同じテレビドラマを観ても「面白かった」という人もいれば、「面白くなかった」と言う人もいます。
もう1つは、人の評価は移ろいやすいものである・・ということです。
例えば、生前は全く評価されなかったのに、死後になってから評価されるようになる人もいます。
そんなわかれやすく、移ろいやすい人の評価で自分を判断しようとすると、自分を見失ってしまいやすくなるかも、知れません。
じゃあ、どうしたらいいか?
・・というと、自分の評価は自分で決める・・というやり方にシフトしていってもいいのかも知れません。
その際、結果ではなくて、「過程」や「自分の在り方」で自分を判断しようとすると、自分を見失ったり、ブレたりすることが少なくなってゆくかも知れません。
例えば、大会で優勝した・・という結果で自分を判断しようとすると、優勝した時はいいのですが、次の大会で勝てなかった時、自分を評価できなくなり、自信を失ってしまうかも、知れません。
また、結果のような目に見えるもので自分を判断しようとすると、人と比べたくなったりします。
そうではなくて、つまり、結果ではなくて、過程や自分の在り方で自分を判断しようとしてみます。
自分の中に、こんな自分でいたいという理想の自分の在り方をまず持ちます。
そして、その自分がいいと思える「自分の在り方」に対して、自分はどうだったか?ということで自分を判断してゆきます。
このやり方は、言ってみれば、結果が出る一歩手前の、過程の部分で自分を評価するやり方かも知れません。
結果は、自分ではコントロールできない色々なものに左右されます。
だけど、過程は多くの場合、自分でコントロールできます。
自分でコントロールできることの中に、自分を判断、評価する基準を作ってゆくと、自分を見失ったり、ブレたりすることが少なくなってゆくかも知れません。
勿論、色々な世界で、仕事やスポーツの世界もそうですが結果というものは大切なものだと思います。
ただ、結果と自己評価はわけて考えた方が自分や自分がやるべきことを見失わずに済むこともあります。
また、自分をしっかりと評価してあげることで生まれる自己肯定感というものが自分に結果を出すための力をくれることもあるように思います。
他人基準ではなくて、自分基準でいいと思うのです。
また、自分は最高だ・・なんていう風に自分を高く評価する必要もないと思います。
ただ、こんな自分でいいかなと思える、自分への肯定感があればいいのだと思います。
その自己肯定感というものが、自己評価が低いことで手に入れてしまった完璧主義を手放す際は特に、大切なものになってくるように思います。
敏感で真面目な性格と完璧主義
完璧主義の2つの根本的な原因。完璧主義をやめたいと思った時は?でも書かせていただきましたが、敏感で真面目な性格が完璧主義に何かしら関係していることもあるようです。
例えば、親が何事にも否定的で批判的だった場合や親御さん自身が完璧主義だった場合、子供はどこかで常に完璧を求められてしまうこともあるかも知れません。
敏感で真面目な性格だからこそ、親の求めることがわかったり、親の気持ちを推し量ろうとする・・そんなこともあるかも知れません。
そして、それが完璧であろうとする気持ちにつながって、それを大人になっても手放せないでいるということもあるかも知れません。
ただ、じゃあ、敏感で真面目な性格が悪いかといったら、そうではないように思います。
勿論、例えば、敏感過ぎる、真面目過ぎることがあれば、その少し過剰な部分は手放してゆけたらいいのかも知れません。ただ、敏感で真面目な性格の人にしかできないことが沢山あるように思うのです。
ただ、もし、親の価値観や親が求めることを敏感に感じ取って、その価値観で生きようとしてきた方であれば、(完璧主義を手放すために)その価値観ではなく、今度は自分の価値観で生きてみようとするのも、一つの方法なのかも知れません。
誰かがいいと言う自分ではなく、自分がいいなと思える自分でいようとすると言いましょうか。
そんな完璧主義からの抜け出し方があってもいいのかも知れません。
完璧主義の人に共通しているもの
少し話は変わりますが、完璧主義の人には、共通するものがあると言われています。
それは何かというと、「沢山の価値観があることと、その価値観の基準が高い」ということです。
それらは、ここまで書かせていただてきたように、完璧になろうとしてきた結果、身に付けてしまったものが多いのかも、知れません。
価値観が沢山あることはいいことだと思うのです。
ただ、その1つ1つの価値観の基準が高いと色々なところで、問題が起きてくることがあります。
その高い基準を満たさないものが許せなくなったり、その基準を満たせない自分が嫌になってしまうことがあるためです。
価値観の基準が高いとはどういうことか?
自分の中にある、本来であれば、素晴らしい価値観と言いますか、健全な価値観のようなものが自分を疲れさせてしまうこともあるかも、知れません。
例えば、「人に迷惑をかけないようにしよう」・・は本来であれば、健全で、そして、多くの人が持っている、大事な価値観なのだと思います。
ただ、その価値観の基準が高くなり過ぎてしまうと・・他人が受け入れられなくなったり、自己否定につながってしまうことがあります。
「人に迷惑をかけない」という価値観の基準が高くなるということは、言い換えると、人に迷惑をかけないことの重要度が高くなるということだと思います。
「人に迷惑をかけないこと」の重要度が高くなると、例えば、ちょっとしたことでも、意図していないとわかっても、「人に迷惑をかける」人が受け入れられなくなってしまうし、人に迷惑をかけた自分の過去などを思い出して、自己否定をはじめてしまったりするかも、知れません。
お釈迦様が説いた生き方と「中道」
何か、自分の中にある考え方であったり、思いであったり、価値観を大切にすることは大事なことだと思います。
ただ、それを大事にし過ぎると、先ほどの例のように、価値観の基準が上がって、自分が疲れたり、人を受け入れられなくなってしまうことがあるかも知れません。
ところで、お釈迦様が説いた生き方に「中道(ちゅうどう)」というものがあります。
中道とは、「一方にかたよらない穏当な考え方」のこと。
これは僕(筆者)なりの解釈ですが、中道とは、極端であったり、偏っていてはいけないよという、お釈迦様の教えなのだと思います。
何かを大切にするのはいいことでも、大切にし過ぎると(極端だと)、柔軟性がなくなってしまって、何かが起きた時、さっとかわすことができない。
ほどよく大切に、ほどよくいい加減にを目指してゆくと楽になれることがあります。
この場合のいい加減とは、「よい加減」という意味になります。
これは勿論、言うは易く行うは難し・・なのですが、ただ、完璧主義を治す、やめるには、自分の中にある極端な価値観、高すぎる価値観を見つけ、その思いを少しだけでも手放してみることが必要なのかも知れません。
もし、そういった高すぎる価値観が自分の中にあるのであれば。
自分の価値観はほどよく大切にしてみると、人を受けいれることができるようになったり、自分を許せたりするようになるようです。
「~べき」だからするのではなく、「~したい」気持ちを大切に
価値観を持つにしても、例えば、「~するべき」という価値観、考え方は、自分を縛り付けてしまう考え方なのかも知れません。
「人の思いを大切にするべき」という価値観は、人の思いを大切にすること以外を自分にも、そして他人にも許していません。
これだと、人の思いを大切にできなかったと思った時に自己嫌悪に陥ったり、人の思いを大切にしてくれなかった人を(例えば、本当は何か事情があったのだとしても)許せなくなってしまいます。
そんな時は、「~べき」ではなく、「~したい」を大事にしようとすると、自分の考え方、価値観を大事にしながら、同時に自分や他人を許せるようになってゆくことがあります。
「~したい」は「自分が」したいのであって、その考え方であれば、他人にも同じことを求めなくても済むからです。
言い方を変えると、
「~したい」は、自発的。
「~べき」は強制的。
だから、「~したい」は疲れないし、「~べき」は疲れるのかも。前者は自ら進んでやっていて、後者は自分に何かを強制しているためです。
自分を変えることは簡単じゃないけれど
ここまで完璧主義を治すため、やめるためにはどうしたらいいか?ということについて見てきました。
完璧主義をやめるということは、自分を変えるということで、それは性格を変えることはできるか?考え方、捉え方を変える「捉え方道」でも書かせていただいた通り、簡単なことではないかも知れません。
また、原因であったり、やるべきことはわかっているのに、それを実践できない自分がいたりすると、そんな自分、わかっているのに変われない自分が嫌になったりもするかも知れません。
だけど、続けてゆくうちに、何かが少しづつ、変化してゆく・・ということもあるように思います。
それはまだ、はっきりとわかるようなレベルではないかも知れませんが、続けているうちに人は少しづつ、少しづつ変化してゆけるものだと思うのです。
人が変わろうとすることは、螺旋階段(らせんかいだん)をのぼるようなものだと、そんな風に言われることがあります。
変わろうと思っているのに、また同じ場所に戻ってきた自分に気づくと、そんな自分にがっかりすることもあるかも知れません。
だけど、人は螺旋階段をのぼるように成長してゆくのかも知れません。
一周して同じ場所に戻ってしまったと思っても、実際はスタート地点よりも自分は少し、上にいるのかも、知れません。