自分の存在意義や存在価値がないと思ったら考えるたった1つのこと
自分の存在意義や存在価値が感じられない。
そんなこともあるかも知れません。
自分がここにいる意義や価値が見出せない時は、何だか生きることにも意義や意味を見出せなくなったりして、とても辛くなったりします。
そんな時は、どんなことをしたら、自分の存在意義や存在価値というものを感じることができるでしょうか?
今回はそんなことについて見てゆきたいと思います。
また、記事の最後では、人と自分を比較して、自分の存在意義や価値を感じられなくなった時はどうしたらいいか?ということについても書いてみたいと思います。
人との比較の中に求めた自分の存在意義や存在価値
これは筆者自身の話になりますが、昔の自分は、人との比較の中に、自分の存在意義や存在価値のようなものを見出そうとしていました。
そして、何かを成し遂げること、何者かになることが、自分に存在意義であったり、存在価値を与えてくれると、そう思っていたのです。
それは、そういう教育をされてきたことも関係していたかも知れないし、人よりも抜きんでるということが、社会で生きてゆく上では、競争社会で生きてゆく上では大切なことだと、そう思っていました。
そういう意味での存在意義や存在価値もあるかも知れません。
そして、何かを成し遂げること、何者かになること、または人に勝つこと、抜きんでることで感じることができる自分の存在意義、存在価値というものも、あるかも知れません。
そういう存在意義や存在価値を求めてゆく・・という方法もあると思うんですね。
以前の僕自身、競争社会で生き残るには、勝たないといけないと思っていたし、抜きんでなければならないと思っていたし、何かを成し遂げないといけない、何者かにならなければならないと、30代前半までそう思い続けてきました。
そのために努力したし、競争社会の中で、勝負をするならやってやろうと、そういう気持ちでいました。(それ以外にその時は方法を知らなかったといった方がいいかも知れませんが)
僕はこの、何かを成し遂げようとすることを否定するつもりはありません。そういうやり方があってもいいと思うし、自分自身、ずっとそうしようとしてきました。
ただ、自分自身のことを言うと、そうやって、人と比べてゆく中で、誰かに勝とうとすることや何かを成し遂げようとすることを続けてゆく中で、僕はよく、自分を見失っていました。
高いモチベーションを持ち続けて、努力を続けていたのに、ある日、突然のようにやる気を失ったり、それを続ける意味が見つからなくなったり。
自分が本当にやりたいことがわからなくなることが多かったのです。
それは、恐らく、好きだからやっていたというより(好きだからという気持ちも勿論あったのですが)、何かに勝つため、何かになるため、何かを誰かに証明するためにやっていたから・・・だったのかも知れないなと、今、振り返ってそう思います。
当時の自分は誰かに何かを証明するために一生懸命だったのかも知れないな、と。
だから、よく自分を見失っていた。だから、自分が本当にやりたいことが何だったのか、よくわからなくなったりしていたのかも知れません。
そんなことを繰り返して、僕は、自分が求めていた自分の存在意義のようなものは、少なくとも自分にとっては、この、何かを成し遂げること、抜きんでること、何者かになろうとすることの中には、ないのかも知れないなと、そう思うようになりました。
そこから、僕は、新しい、自分の存在意義や存在価値の求め方をするようになってゆきました。
もう1つあった、自分の存在意義や存在価値を感じる方法
以前のやり方で、自分をよく見失っていた自分、自分がやりたいことが本当は何だったのかがよくわからなくなっていた自分ですが、30歳の頃に転機を迎えます。
勤めていた会社をリストラされたのです。
それまで、競争社会で勝ち抜くことが大事だと思っていた自分が、突然の首宣告をされたのです。
色々なものが否定されたように感じて、自分がやってきたことは何だったのかと、その後、長い間苦しみました。
ただ、その時の大きなショックが自分を変えようと思うきっかけになりました。
その当時は、仕事のことだけでなく、とにかくありとあらゆることがうまくいかずに、体も心もボロボロでした。
ただ、そこまで追い込まれたことで、自分を変えざるを得なくなった。
それはよかったのかも知れません。
とにかく色々な本を読みながら、それを自分で実践してゆきました。
そんなことを続けていたのですが、ある時、体を壊して、休養のため、リストラされた後に拾っていただいた会社を退職せざるを得なくなりました。
その後、どうしようかなと思っていたのですが、以前から自分でやってみたいことがあり、思い切って自分で仕事を立ち上げてみることにしたのです。
そこに至るまでのことは、夢を諦めるべきか迷う時、後悔しないための決断方法にて書かせていただいたので、ここでは詳しい説明は省略したいと思います。
ただ、それはあるスポーツの分野の仕事で、自分にはその分野で夢があって、単身アメリカに渡った経験がありました。そこで10年間という月日を過ごしました。
そこで過ごした日々は、これまで経験したことのないような挫折の日々でした。
ただ、その時、学んだことを形にしたら、以前の自分と同じように悩んでいる人の役に立つのではないか・・と思い立って、それを小さいながらも、仕事として立ち上げてみようと思ったのです。
仕事はその後、少しづつ、軌道に乗ってゆきました。
そして、不思議なことが起きたのです。
以前の自分と同じように悩んでいる人の役に立つかも知れない。最悪、役に立たなくても、過去の自分に向かって何かをすると思えばいい。
そう思っていたのですが、仕事をはじめて少しすると、感謝のお手紙を沢山いただくようになったのです。
僕がアメリカに行ってまで夢を追いたいと思ったのは、1つは、そのスポーツが好きだったから。もう1つは、何かを成し遂げるため、何者かになるためでした。
自分がここに存在する意味はあるんだと、そう自分自身で思いたかったからです。
逆に言うと、その頃の自分は、自分が存在することの意義を感じられずにいたのです。
ただ、そんな風に自分の存在意義や存在価値のようなものを求めて、一生懸命になっていた頃は、何故か色々なことがうまくいきませんでしたし、自分がここにいる意味なんてないと、どこかで投げやりになっていました。
ところが、自分がやってきたことが誰かの役に立つかも知れないとはじめた仕事で、突然のようにそんな自分が感謝されるようになった。
その時、自分はここにいてもいいんだという、自分が存在することに対する、小さな、だけど、確かな肯定感のようなものが自分の中に生まれました。
その自分という存在に対する肯定感は、僕の場合は、自分で得たというより、人から与えてもらったものでした。
ただ、自分の存在意義や存在価値を感じるもう1つの方法があるとすれば、そんな風にして、誰かに喜んでもらうことがその方法でもあるのかも知れません。
自分がやったことが誰かに喜ばれた時に感じることができる、自分の存在意義や存在価値というものがあるようです。
「自分が他者にとって役に立っていると感じられた時、自分の価値を感じることができる」
これは以前にも少し書かせていただいたことがありましたが、心理学者として世界的に有名なアドラーは、
自分が他者にとって役に立っている、貢献していると感じられた時、自分の価値を感じることができる
・・・そう語っています。
このアドラーのいう貢献とは・・・大きなものだけではなく、小さなものも含めているようです。
例えば、ニコッと笑って相手と接することだけでもいいのかも知れません。
笑顔で接してもらえると人は、嬉しくなるものだと思います。
そんな小さなところからはじめて、そして、誰かのことを考えたり、人に喜ばれることをしてみようと思ってみることが、結果的には自分の「価値」を感じられる、自分には存在意義があるんだと思える心へとつながってゆくかも、知れません。
自分には存在価値がない、存在意義がない・・そう思った時は、冒頭で書かせていただいたように、何者かになること、何かを成し遂げること、抜きんでることで、自分の存在する意義や価値のようなものを見つける方法もあると思います。
ただ、もし、その方法で筆者のように自分を見失ったり、自分が本当にやりたいことがわからなくなった時は、人に喜ばれる人になろうとしてみるのもよい方法かも知れません。
喜ばれる人といっても、そんなに大きなことではなくてもいいと思うのです。
小さなことでもいい。
ただ、先ほども書かせていただいたように、喜ばれたその瞬間に、「ありがとう」と言ってもらえたその時に、自分はここにいてもいいんだという、そんな自分に対する肯定感のようなものが生まれることがあります。
そういうものが少しづつ重なっていって、それがいつか、自分に存在意義のようなものを感じさせてくれることもあるように思います。
人と比較して、自分の存在意義や価値を感じられなくなったら
最後に、人と比較してしまって、自分には、存在意義や存在価値がないと思ってしまった時はどうしたらいいか?
・・ということについて考えてみたいと思います。
人との比較の中に、自分の存在意義や存在価値のようなものを見出そうとしてしまうこともあるかも知れません。
人は、誰かと自分を比べることで、はじめて、自分が何者なのかを知ってゆくものだと思うのです。
人がいてはじめて、自分はこんな性格だとか、自分はこういうものが得意なんだな・・といったことがわかるもので、もし、この世に自分一人なら、自分が何者なのか、よくわからないままだったかも、知れません。
そういう意味で、人と自分を比べることは悪いことではないかも知れません。
また、ライバルと切磋琢磨してゆくことも、時には大切な学びになります。
ただ、他人と比較して、自分には価値がないというところまで来てしまう時は、少し比べ過ぎているのかも知れません。人と自分を。
そんな時は、人と比べることを少しやめてみることで、自分には存在価値がないという思いを手放せるようになることがあります。
ただ、人と比べることをやめようと思っても、やめられないこともあるかも知れません。
その理由は人によって様々だと思いますが、今、一つ挙げるとすると、自分をどう評価しているか?ということが、人と比べることをやめられない理由になっている場合があります。
自分自身を評価する方法を変える
詳しくは人と比べる癖。人と比べてしまう原因と直し方とは?でも書かせていただいたので、今回は簡単に書きますが・・
成績や持っているもの、肩書、収入といった、目に見えるものや結果で自分を評価しようとしていたり、または、自分の価値のようなものを判断しようとしていると・・・人と比べることがやめられないかも知れません。
目に見えるものや結果ですが、例えば、友達の数もそうかも知れません。
例えば、友達の数で自分を何かしら判断、評価しようとしたいたとします。
友達の数が多ければよし。友達が少ない自分はダメ。
・・という風に。
ただ、一つ問題があって、この場合、友達の数はどの位なら、多いのか、少ないのかが曖昧です。
そこで、その基準を作るために・・そう、人と比べる必要が出てきてしまうのです。
自分で自分のことを「よし」と判断、評価するために、です。
続きは、人と比べる癖。人と比べてしまう原因と直し方とは?にて書かせていただいていますので、この辺にしたいと思います。
ただ、目に見えるものや結果で自分を判断、評価しようとしている限り、人と自分をどうしても比べる必要が出てきて、そして、その結果、自分が勝っていると思えた時は、自分は自分でいいと、自分を肯定できるかも知れません。
ところが、自分が負けていると思った時は、自分のことを自分でいいとは思えない。そして、自分がここにいる意義や価値まで見失ってしまうことがあります。
人と比べることは、悪いことばかりではないと思います。
人に負けてたまるかという強い思いが自分を成長させてくれることだってあるわけです。
ただ、人と自分を比べ過ぎてしまって、自分の存在意義が感じられないところまできてしまった時は、少し、人と比べるということをやめてみてもいいのかも知れません。
そのために、自分自身を判断する、評価する方法を変えてみるというのも一つの方法だと思います。
目に見えるもので自分を判断、評価するのではなくて、自分の在り方のような、目には見えないもので自分を判断、評価するようにすると、人と比べる必要がなくなってゆくことがあります。
それについては上記の記事で詳しく書いていますので、よかったらそちらを参照ください。